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創世記説教10「エデンの園に置かれた人間」(2:8〜17)

 創世記2章8~17節から神様の言葉をお読みいただきました。エデンの園が描かれています。エデンの園という名は、一般にもよく知られています。楽園というイメージでしょう。『エデンの東』と言えば、私にはスタインベックの小説よりもジェームス・ディーン主演の映画です。今は韓流ドラマのことのようですね。愛と復讐に生きる男の物語だそうです。創世記では、人は東に向かって次第に神様から離れて行きます。東は失楽園の方角で、貪欲とさばきに結びついて否定的な意味を持つようになります。今、私たちはエデンの東に生きています。教会もエデンの東にあります。エデンの東の事件も起きます。しかし本来「東」は、太陽の昇る方角、光の方角です。神様の臨在を示す方角です。今朝の御言葉の8節に「東の方エデン」とありますね。これは人が堕落する前の良い意味の「東」です。神様がご臨在なさるところという意味です。
 
 私たちは「エデンの園」と言い、聖書も「エデンの園」と呼びます。今朝の箇所の15節にも「エデンの園」とあります。ただ8節をよくご覧下さい。神様は「エデンに園を設け」と言われています。園はエデンと呼ばれる場所の中にあったのです。神様は土地のちりで形造った人(アダム)をエデンに設けた園に置かれました。ここでアダムは最初の男性の名前、固有名詞ではなく「人」という意味です。「土」(アダマー)から造られたので、「人」(アダム)と呼ばれました。これは単なる語呂合わせではなく、人間は「土」から造られ、「土」を耕し――ただ農業という狭い意味ではなくすべての地の文化(カルチャー)に関わってですね――そして、堕落後は「土」に帰る、そういう人間の本質が込められています。人は本来「土人」(つちびと)なのです。
 
 先週、宮村武夫先生からお電話をいただきました。教会連合の青梅キリスト教会を建て上げながら、長く国立や千葉の神学校でも教鞭をとられ、教会連合(JECA)の成立にもご尽力なさった先生です。東京を離れて沖縄の首里で牧師をなさって引退されたのですが、去年、脳梗塞で倒れられました。リハビリ中の病院からのお電話でした。用件に交えてリハビリのことに触れられて、「神様はクリスチャンを造られたのではなく、人間を造られた」と、唐突な感じで心底喜びに溢れたお声でそうおっしゃいました。「徹底した聖書信仰、徹底した聖霊信仰」と、これまた唐突に言われて電話を切られました。いかにも宮村先生らしい言葉でした。
 
 私は19世紀ドイツの牧師ブルームハルトの有名な言葉を思い起こしていました。「人間は二度回心する必要がある。自然的な人間から宗教的人間へ、そして、宗教的な人間から自然的人間へ」という言葉です。噛み砕いて言えばこういうことでしょう。人はまず造り主に背を向けた古い自然のままのいのちから、信仰をもって造り主に立ち返った宗教的な人間へと回心する必要がある。しかし、そこで狭く閉ざされた宗教の世界に生きるのではなく、そこからまた神様が最初に造られた人間のように、単純に真実を尊び、善を重んじ、美を喜んで生きる自然的な人間へと回心する必要がある。もっと簡潔に言いましょう。人間は神様に造られた者です。であるなら、造り主を信じて生きることが最も人間らしい自然なことです。私たちがクリスチャンとされたのは、造られた者にふさわしい、本当に人間らしい人間になるためです。リハビリ中の宮村先生が「神様はクリスチャンを造られたのではなく、人間を造られたのです」と言われたのは、不自由な中で地のちりから造られたお体を引きずりながら、神様のいのちの息を胸いっぱいに吸い込んで、生かされて在る喜びを味わっている、そのいのちの喜びをおっしゃったのだと思います。
 
 さてエデンの園に戻りましょう。「エデン」は「喜び(歓喜)」とか「草原」という意味につなげることもできますが、語源的には「豊かな水の供給のあるところ」という意味です。「園」は特別に守られた領域のことです。豊かな水が1つの川としてエデンから流れ出ています。エデンはいのちの川の水源です。その水は園を潤し、園を出口として、そこから分かれて4つの川となって全地に流れ出ています。            

 神学校の入学試験に聖書知識という科目があります。私が受験した際、「創世記1~2章に出て来る川の名前を3つ書きなさい」という問題が出ました。1つも書けませんでした。後で面接の時に、昨年天に帰られた野球好きの島田福安先生に「聖書知識はポテンヒットでしたね」と言われました。今なら4つ全部言えます。見てますからね。
 
 1つはピション、ハビラの全土を巡って流れます。第2はギホン、クシュの全土を巡って流れます。第3はティグリス、アシュルの東を流れます。第4はユーフラテスです。ティグリスとユーフラテスは有名ですね。ピションとギホンは今では分かりません。ただ、創世記が伝えるメッセージは川の場所ではなく、その役割です。
 
 エデンから出ているのは1つの川です。エデンは水源ですが、豊かに湧き出るその水は、神様からの賜物です。水はまずエデンに設けられた園を潤します。そして園から分かれて4つの川となって、いのちを与えるために地の全体に流れて行きます。4という数字は四方、全地を表わします。
 
 ここに聖書全体の理解に関わる、とてもとても大切なことがあります。創世記はエデンとその園を神殿(聖所)として描いているのです。エデンは神様が臨在なさる至聖所、園はその前の庭です。説教ですから1つ1つ取り上げませんが、学者たちはエデンの園と後のイスラエルの幕屋や神殿を比較して、幕屋や神殿の原型がエデンと園にあることを明らかにしています。幕屋や神殿に豊かな植物の装飾が施されたのは、そこがエデンの園を映しているからです。創世記1章は、この大宇宙を神様が臨在なさる神殿として描いています。太陽や月は宇宙という大神殿の燭台です。7日目はただの休息の日ではなく、天の天もそのお方を入れることができない神様が、この造られた宇宙という神殿に臨在なさりご支配を告げられた日です。そこで7日目は民の礼拝の日なのです。
 
 エデンと園も神殿として描かれています。すべての人にいのちを与える水が、神様が臨在なさるエデンからまず園を潤し、そこから地の全面に流れ出て行きます。預言者エゼキエルは終末の完成の幻を見て言います。神殿からいのちの川が全世界に流れ出て、「この川が入る所では、すべてのものが生きる」(47:9)と。新約聖書のヨハネの黙示録22章に新天新地の幻が描かれています。神と小羊の御座からいのちの川が流れ出ています。川の両岸には12種の実をならすいのちの木が生えていて、すべての悲しみ、苦しみ、叫びを癒します。新天新地は大きな立方体として描かれます。新天新地の全体が神様が臨在なさる至聖所なのです。新天新地は失われたエデンの、もっとはるかに素晴らしい回復であり完成です。
 
 さて、エデンの園は神様の恵みと愛に満ちた場所でした。人は神様の愛を一身に受け、そこには「食べるのに良いすべての木」がありました。すべて神様から人への贈り物です。8節に「人を置かれた」とある言葉は、そこに「人を憩わせた」という意味です。しかし、人が憩うということは、労働がないということではありません。15節をご覧下さい。
 
 「神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。」
 
 これが神様が人に与えられた使命です。エデンに豊かな水が供給されるのは、人が寝ていても食べられるためではなく、地を耕すためです。その労働は辛苦の糧を食べるためのものではなく、憩いであり、喜びでした。
 
 「耕させ」も「守らせ」も、普通、祭司が神殿に仕えることに使われる言葉です。これはとても大事な意味をもっています。アダムはただの庭師なのではなく、エデンの園を神様が臨在なさる聖所として守る祭司なのです。エデンから流れ出る1つの川が、もし園で濁ったり、枯れたりすれば、園から流れ出る4つの川が世界を潤すことはできません。人の使命は果たされないのです。アダムは祭司のように、とりなすように、園の地に仕えて働きます。ピションが巡り流れるハビラの全土には、金やベドラハ(香りの良い松やにのようなものだと言われています)、宝石がありました。みな神殿を飾ったものです。そこは聖所の外の世界です。神様は世界の全土に人と礼拝のために豊かな資源を与えておられます。
 
 今、『1492』という本を読んでいます。コロンブスがアメリカ大陸を発見した年ですね。その年からいかに世界がまったく変わってしまったか。一言で言えば、金やベドラハや宝石のために、キリスト教的ヨーロッパが神の名で世界を収奪した歴史を濁流のように描いた本です。私たちも今、その流れの中に生きています。 
 
 人が祭司として地に仕え、エデンの水が流れて行くところを耕し、園を広げて行く。そうして全地がエデンの園になることが神様のみこころでした。しかし、私たちは今、楽園を失ったエデンの東にいます。それは、園の中央に生えていた木をめぐって言われた神様の言葉に関係があります。
 
 エデンの園の中央に2本の特別な木が生えていました。「いのちの木」と「善悪の知識の木」です。まず神様の豊かな祝福に心に留めましょう。
 
 16節で神様はこう仰せられます。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。」すべては自由でした。あり余る祝福の実があって、どれだけ食べてもいいのです。「いのちの木」から取って食べてもいいのです。エデンの東に生きる私たちには、エデンの園に溢れていたいのちについて、本当のところは理解できません。ただエデンの園でも、人は当然のことながら歳をとったでしょう。「いのちの木」は、異教で言われる不死の木というより、人を生かし、癒す木だと思います。人はエデンにいる限りは死を経験することはありませんでした。
 
 園の中央にもう1本の特別な木がありました。「善悪の知識の木」です。神様は、この木に関してだけ、「取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と言われました。古代オリエントの神話には様々な「聖なる木」が出て来ますが、「善悪の知識の木」は未だ他の文献には見出されないそうです。
 
 「善悪の知識」というのは、ただ善いことと悪いことの知識、というだけでなく、すべてのことの知識を指します。すべてのことについて知識や知恵を追求するのは人に託されたことです。ただそのすべてのことについて善悪の判断をする基準をつくり出す、これは神様にのみ属する知恵です。いのちにとって何が善であり何が悪であるかは神様だけが知ることです。人はそれを神様から教えていただいて知ります。神様に聞かないで、あるいは神様のみこころを隠して、自分で善悪を決める。善悪の知識の木から食べるということは、そういうことですね。その木に何か特別の魔法があるのではない。ただの善し悪しの判断の正しさでもない。神様に聞き従うかどうかということです。「食べてはならない」という木から取って食べる時、人は自分が神のようになります。その時、人はエデンにいることはできません。人は必ず死にます。身体も霊も死にます。
 
 すべては思いのままに自由というエデンの園で、たった1本の木に神様は選択という自由を与えられたのです。人は神様を愛することも、神様を愛さないこともできます。神様は人に自由な愛の応答を求められました。人は誰かを愛している時、誰の心にも1本の木が立っているはずです。食べないという約束は喜びであるはずです。そうでなければ、その人は奴隷であるか、さもなくばロボットです。
 
 さて、最初の人間アダムは、神様の園で地に仕える祭司でした。エデンの園を全地に広げるために耕す使命が与えられました。「地に仕える・耕す」ということは、必ずしも農業のことだけではないでしょう。英語で文化を意味するカルチャー(文化・文明・教養)という言葉は、カルチヴェイト(耕す)という言葉に由来しますね。神様に与えられたいのちを生きることは、すべてにおいて、仕えること、自分の心を含めて耕すことではないでしょうか。種を蒔き、刈り取るまでは時がかかります。インスタントな耕しはあり得ません。
 
 私が生まれ育った岩手県奥州市に福原と呼ばれる豊かな穀倉地帯があります。そこはかつて宣教師が「砂漠のごとし」と言った荒れ地でした。後藤寿庵というキリシタン大名が大変な工事をして堰を造り、そこを豊かに水が供給される地にしました。寿庵堰と呼ばれ今に至るまで使われています。水が地の四方に分かれる場所があり、徳水園と呼ばれます。寿庵は、福音の種を蒔く原野という意味で、その地を福原と名づけました。その地の中心に教会を建て、領民に何の差別もつけず一緒に礼拝をしたのです。
 
 後藤寿庵はアダムを生きた、と今私は思います。今は「砂漠のごとし」とも言うべき人の世です。悪においてだけでなく、自分が善と思うことにおいても非常に攻撃的な世界になりました。どこの誰かがということではないですね。私たち自身が耕さなければ砂漠になるエデンの東です。預言者イザヤは言いました。「主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた」(58:16)と。様々な善悪の判断を下しながら、そこに人がいない、とりなして祈っている者がいないというのです。耕している人がいないというのです。最初の人間アダムは祭司でした。地に仕え耕す人でした。私たちがクリスチャンにされたのは、ただ天国に行くためではなく、砂漠のようなこのエデンの東の世界において、神様が最初にお造りになったような人間になるためです。これからの時代、私たち一人ひとりが造られた者にふさわしい「人」(アダム)を生きながら、福音を語ることが真の伝道であることを心に留めたいと思います。  アーメン

         ( 2010年2月7日 キリスト教朝顔教会主日礼拝)
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百姓とんちゃん

Author:百姓とんちゃん
牧師生活を経て、北の大地の信仰共同体で農耕生活の見習いをして後、千葉県で四街道惠泉塾を営んでいます。

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