Ⅰヨハネ4:17「この世でわたしたちも、イエスのようである」 (2018.6.9. 札幌キリスト召団夏期聖会講話より) 

 17節に「この世でわたしたちも、イエスのようである」とあります。驚かされる御言葉です。
 
 新共同訳は「イエスのようである」、 新改訳は「キリストと同じようである」と訳します。文字通りには「あの方のようである」です。イエス・キリストを「あの方」と書いたヨハネの心を想います。ヨハネは、手紙の冒頭に語っている自身が「聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」(1:1)、地上を歩まれた「あの方」のお姿を聖霊によってありありと想い起こしているのでしょう。

 愛し合えない教会の問題に向き合いながら、ヨハネは、愛し合えなかった自分たち弟子のことを思い起こしているのではないでしょうか。最後の晩餐(聖餐)にあずかりながら、「この中でいちばん偉いのは誰だろう」と考えていた、あの高慢だった自分たち。そういう自分たちに「あの方」がどう向き合って下さったか。イエス様は、別れの説教で、その夜、弟子たちがご自身を捨てること、真っ暗闇のトンネルを通らされることを知りながら、立ち直った後の弟子たちのために言われました。

 「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:34,35)

 兄弟姉妹、「神の愛がわたしたちの内に全うされる」とはどういうことでしょうか。「わたしたちの内」ですね。この箇所には「その人の内」という言い方もありますが、神の愛が全うされるのは「わたしたちの内」です。互いに愛し合う人間の交わりの間に神の愛は全うされます。「全うされる」は受動態(受身形)です。神の愛を全うするのは、私たちではなく、神様ご自身です。
 
 私の心にずっとひとつのイメージがあります。今この私たちの交わりの中央にキリストの十字架が立っています。十字架の下に泉が湧いています。清冽な水がこんこんと湧き出ている泉です。ひざまずいて手ですくってその水を飲みます。尽きることなく湧き出る水のほんの一部を飲むのです。しかし、一部分をいただいているのではありません。泉の命のすべてをいただいているのです。ちょうど、聖餐のパンをちぎったり、ぶどう酒を分かち合うときに、兄弟姉妹と共にキリストの命のすべてに与っているように。
 
 13節に「神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました」とあります。新改訳は「御霊を与えてくださった」と訳していますが、そこは新共同訳や岩波訳のように「分け与えてくださった」と理解すべきです。聖霊が分け与えられる。それは私が泉のイメージでお話ししたことではないでしょうか。私たちが心から悔い改めるとき、聖霊は、繰り返し繰り返し、分け与えられ、その人の内に満ちあふれます。同じ聖霊は兄弟姉妹にも分け与えられます。そして、私たちが聖霊によって互いに愛し合うことにおいて、神の愛は完全な愛として全うされます。自分では愛せない者が愛する者とされているとすれば、私たちは裁きの日に確信を持つことができます。たとえ心に責められることがあろうともです。私たちを裁く方は、私たちの内に住んでおられるお方です。そして、神は私たちの心よりも大きく、すべてをご存知で御子を十字架につけられたからです。神の愛を知る人は、裁きを恐れることはないのです。

 兄弟姉妹、「わたしたちの内に神の愛が全うされる」「完全な愛は恐れを締め出す」ということは、私たちがまったく間違いのない完全な愛の人になるということではありません。私たちが分け隔てなく愛し合うということです。決して自分のものではない愛で愛し合うということです。神様に愛は日々の生活に表されます。
 
 昨年、オリーブ山教会の礼拝式の証言で、惠泉塾に移り住んで、自分が変わったこと、変えられたことについて話しました。準備をしながら、家内に「惠泉塾に来て僕が変えられた話をするんだけど」と言いました。すると「あなた変わった?」と言われました。

 それはともかく、説教壇から愛を語りながら、その自分が人を愛せない、そういう自分が変わったでしょうか。変えられたでしょうか。「あなた変わった?」という家内の言葉は、いろんな意味を含んできっと真実です。ただ私には余市惠泉塾という生活共同体で教えられ、変えられたことがあります。

 余市惠泉塾での日々は、非常に単純な日常生活の繰り返しですね。朝早く起き、デボーションに出て、朝食をとり、掃除をして、作業をし、昼食を食べ、午後にも働き、そして皆と夕食を食べて、惠泉荘に帰り、就寝するといった同じことを繰り返す生活です。イエス様は、そういう小さなことのただ中におられます。単純な日常生活の繰り返しと言いましたが、そこに平和が訪れるためには、絶えず自分を捨てるということがあります。

 単純な日常生活のなかで、自分を捨てる、自分に死ぬ、ということは単純なことではありません。愛のない自分に向き合わされます。愛することは、愛させないもの、憎しみや蔑みの霊との戦いです。惠泉塾で私は、自分には愛がないことにこそ愛する希望を持てるようになりました。「神は愛」だからです。神の愛が、決して単純なだけではない生活の場面で、私を支え導いて下さいました。

 私は愛において未熟な者です。ただ惠泉塾という生活共同体で、自分を捨て、互いに愛し合えるなら、愛のない者が愛するというそのことにおいて、現在すでに「神の愛がわたしたちの内に全うされている」と信じるようになりました。たとえ未熟であっても「この世でわたしたちも、(小さな)イエスのようである」のです。

 【付 記】Ⅰヨハネ4:17「この世でわたしたちも、イエスのようである」について、確かロイドジョンズがどこかで、驚くべき御言葉と言いながら、神学的にその深い意味を説き明かしていました。ロイドジョンズは、神学的に語りつつ、教理的な骨格を持った言葉が霊的な力で心に届く稀有な説教者です。「あの方」(エケイノス)は、イエス・キリストのことですから、それを「イエス」(新共同訳)や「キリスト」(新改訳)と分かりやすく訳して間違いではありません。以前の私であれば、ヨハネの手紙における〈エケイノス〉の用法を下地にして、この文脈でもそれはイエス・キリストのことであるとした上で、「この世でわたしたちも、イエスのようである」という御言葉の神学的認識を説明して語ったと思います。しかし、今私は、地上を歩まれた「あの方」を、聖霊によって、今ここで想起するようになりました。そこでは、「聖霊によって」(聖霊を語ること)は決定的に重要です。「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」(Ⅰヨハネ1:3)が、それは内住の御霊によることです。そういう意味では、「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」(Ⅰヨハネ1:1)も、ただ過去に地上を歩まれた神の御子と共にあった使徒たちだけの体験ではなく、聖霊によって、今ここでキリストの体に触れるということでもあります。私はこのことを身体性を持った信仰共同体で生活することによって体感しました。
 
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聖書知識と聖書力(続けて「新スカルの井戸端会議」のご案内を添えて)

 長野県上田市への二泊三日の月例のご奉仕を終えて帰って来ました。郊外の住宅地にある小さなキリスト教書店で、そこに遣わされた2人の姉妹が共同生活を営み、1人の地元の姉妹がそこに加わっています。今月26日には、町の中心で障害者と健常者の共生のために活動している筋ジストロフィーの兄弟が千曲川で洗礼を受けるので、私ども夫婦も立ち合いたいと願っています。

 今回の上田での朝の学びは、余市でのデボーションにスカイプで参加した1日と、もう1日は水谷先生が月毎の丹波塾でなされた創世記から黙示録までの聖書通読の1章分(Ⅰサムエル)の解説と応答をCDで聴いて、それに基づいて分かち合いをして、そこに私がコメントをするというかたちでした。

 丹波塾での聖書通読は、水谷先生が御言葉を朗読し、必要に応じて説明や適用を加えるというかたちでなされます。その息や、それによる空気に、導く人の主との交わりの生活の密度がはっきりと現れます。ただのランニングコメンタリーのような話では味気のない退屈なものになるでしょうが、聖書朗読自体が信じて生きている人の息による、究極の聖書解釈です。当然ながら、私は個々のテキストの解釈において、すべて水谷先生と同意見であるわけではありません。しかし、そうして聖書全巻を読み通す霊的な力には、まったく脱帽します。個々の箇所の聖書知識は、机に向かってお勉強すれば、いかようにも深めることができます。しかし、聖書全巻を霊的な力をもって読み通すのは、その人が日々の生活で主と交わりながら、繰り返し聖書全巻を読み、文字通り聖書の隅々まで知り、そこで主ご自身を知らなければできないことです。それが真に人を活かす聖書力です。

 丹波塾は、たとえば三泊四日でイザヤ書66章の全節を読むという仕方で行われ、聖書全巻を読み通したそうですが、そのスピード感は圧巻です。私は牧師時代、いかに聖書のごく一部しか語って来なかったか、恥ずかしく、また残念な気がします。時と所が変われば、以前に学んだ箇所を学び直して語るということも多くありました。聖書研究会で旧約聖書を学ぶときは1章ずつ進みましたが、新約聖書では、短いパラグラフで語ることがほとんどでした。その方が準備もしやすいですし、学びも深められるのですが、聖書知識は蓄積できても、どれだけ聖書力を自分の息(霊的な力)にできたかと思います。

 なかなか簡単にできることではありませんが(導く側には経験が必要かもしれません)、教会の聖書研究会のような場においても、聖書が1章単位で朗読され(神の言葉の朗読は非常に大事です)、何人かの人が質問を含めて、教えられたことを分かち合い(そのためには、あらかじめその章を読んで、ノートにまとめる必要があります。聖霊の導きの中で互いに聴き合うことが大切で、レポーターを立てる必要はありません)、教える人が知識と知恵をもって霊的に導く(教師の日々の生活がそこに反映します)というようなことができれば、教会に与えられた聖書の読み方としていいのではないかと思います。でもきっと、互いのいろいろな意識がうるさすぎて(恥をかきたくないとか、個人的に何かを言われたくないとか)、「先生に勉強してもらって、みんなに、語ってもらったほうがいい」ということになるでしょうね。

 6月30日(土)午前10時から、「新スカルの井戸端会議」で話します。前回(5月)から会場が韓国YMCAから御茶ノ水クリスチャンセンター(OCC)に移りました。4階の会議室で、やはり雰囲気が違います。私は3ヶ月に1度のご奉仕で、前回(3月)から、次のようなシリーズで話しています。

1「共に生きる生活への招待」ー聖書の人間観と生活共同体ー 
2「地に根づき、地に仕えて生きる」ーエデンの園と福音の
  文化ー
3「神の国を生きる小さき群れ」ー世から脱出する共同体ー
4「初めの愛に帰ろう」ー最初期教会の愛の交わりー
5「この希望は失望に終わらない」ーエデンから新しいエルサ
レムへー

 6月は、上記の2「地に根づき、地に仕えて生きる」ーエデンの園と福音の文化ーになります。畑を耕すようになって教えられたこともお話しするつもりでいます。ご一緒にお昼をいただいた後に、質疑応答の時間もあって、それがこの集会が「井戸端会議」たるゆえんです。どなたでも、どうぞおいで下さい。お待ちしています。

近 況(「夏期聖会」で話したことや、「新スカルの井戸端会議」のご案内なども)

 先週は、火曜日から北海道に行き、昨日の夜に四街道に帰りました。木曜日から日曜日の主日礼拝式まで、余市町のホテルを借り切って、札幌キリスト召団夏期福音特別集会(夏期聖会)が行われました。全国から(ニューヨークや大連を含めて)、270名を超す参加者でした。驚きです。

 このところ、3つの聖書講話の集会の1つを担当していますが、今回はそれに加えて2回の早朝のデボーションの導きをしました(水谷先生が導く祈り会に出ない100名ぐらいの人たちを3つに分けた32名のグループ)。聖書講話は、「愛し合うということ」というタイトルで話すようにということでした。ヨハネの手紙第一4章7〜21節から話しました。今回は長たらしい全文は掲載せず、さわりの部分だけをご紹介します。

 「・・・私は教会の牧師でした。牧会経験を重ねるほどに、説教壇から真っ直ぐに愛を語ることに臆病になりました。聖書は神の愛の書です。神を愛し、隣人を愛することを最も大切な戒めとして教えています。聖書を語って愛を語らないことはあり得ません。しかし、自分に身近な聴衆の前で愛を語るとき、どこか口に苦さが残るのです。教会にはしばしばもつれた人間の関係があります。時には牧師自身が、そのもつれた糸に心を絡まれて、問題の当事者になります。そこにいる人、今はそこにいない人に、説教者自身に愛の負債があります。そういうからみとられた現実の中で愛を語ることは心に重いことです。愛についてはお説教はできません。私には自分を捨てて教会員を愛することへの確かな心の手応えがありませんでした。ここに私が牧した教会の兄弟姉妹がおられるとしたら、まことに申し訳ないのですが、今はそう思います。

 教会の問題のほとんどは、表向きはどうであっても、愛し合えないクリスチャンの問題、人間関係の問題、誰かに何かに傷ついたというような問題です。それぞれが自分や自分たちの正しさにこだわります。正しさというのは、それぞれの立場でみんな正しいのです。間違っている人はいないのに、何故か平和がありません。「ここには愛がない。あそこが問題だ、あの人が問題だ」と言っている人が、しばしば最も問題です。「あなたは正しすぎてはならない」と「コヘレトの言葉」にありますね(7:16)。

 教会の中心に愛し合えない2人の人がいれば、その2人だけの問題では済みません。それぞれが自分につくことを求めますから、主の教会を2つに引き裂きます。愛の人は、すべてを主に委ねて、黙って裂け目を繕います。そして、本当に弱い立場にある人が——本当に弱い人は「私は弱い」と言っている人ではありません——ないがしろにされているときに、勇気をもって皆の前で口を開きます。私は、そういう忍耐深い信徒、空気清浄機のような兄弟姉妹に執り成され、支えられて来ました。

 今私は分かります。神様が私を惠泉塾に導かれたのは、愛を学ばせるためでした。人生も信仰生活も、行き着くところ、愛と信頼を学ぶ旅、愛するための従順を学ぶ旅だと知りました。この聖会で「愛し合うということ」という講話のタイトルをいただいて、惠泉塾という荒野の学校で、神様と水谷先生から中間テストのレポートを求められた気がしました。おそらく講話が終われば、「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカ10:37)と言われるでしょう。」

 「・・・なぜヨハネは、こんなにも懇ろに何度も繰り返して、「互いに愛し合おうではないか」と教会に語りかけるのでしょうか。それは教会に愛し合えない現実があったからだと思います。
 
 ヨハネの手紙の教会には異端問題がありました。・・・愛が豊かになるためには、知る力と見抜く力を身に着け、本当に重要なことを見分ける必要があります(参・フィリピ1:9,10)。

 教会に異端が入り込むと、当然、誰が正しくて誰が間違っているか、どっちが正統かという議論になります。あの人はどっちの側かという疑心暗鬼も生じます。それは避けられない現実です。ヨハネは、誰が、どの教えが、「反キリスト」(2:18,22,4:3)、「偽教師」(4:1)、「惑わす霊」(4:6)なのかを、はっきりさせます。「十字架のイエスを神(神の子)・キリスト(メシア)と信じる者」が正統です。結局、異端の教師たちは教会から去って行きました。彼らは仲間ではなかった。何が真理か、誰が正統かがはっきりしました。今ならそこで終わるでしょうね。私たちこそが正統だと。ところがヨハネはそこで終わりません。「自分たちこそ十字架のイエスをキリスト(救い主)と信じる正統だ」と言うのなら、「真理に歩もうではないか」、つまり「十字架の愛で愛し合う生活しようではありませんか」と教会に語りかけます。「互いに愛し合う」ことこそ、あなたがたが神の子とされているしるしだと。「互いに愛し合う」ことは、キリストの福音の真理問題だというのです。とても考えさせられます。

 異端の問題はただ正統教理の問題ではないのです。異端の根にあるのは世への愛、「肉の欲、目の欲、生活のおごり」(2:16)です。異端の教師たちは、世の価値観で人の上に立ちたい人たちです。ですから、自己犠牲の愛で十字架で死んだイエスが神の御子・救い主であるとは信じません。神の御子が惨めに十字架に死ぬはずはない。十字架はただの人間イエスの失敗だった。彼らにとっては、十字架のイエスが神様に従う模範であったら都合が悪いのです。
 
 異端の教師にはカインのねたみがあります。「なぜ私ではなくあの人なのか」というねたみ。相手を自分の目の前から消し去りたいという願い。どんなに自分の信仰は正統だと言っても、兄弟姉妹を愛することをしないなら、それと同じことです。第3の手紙には指導者になりたがっているディオトレフェスという人が出てきます。彼は悪意に満ちた言葉でヨハネたちをそしり、兄弟たちを受け入れず、受け入れようとする人たちの邪魔をし、教会から追い出していました。教会のためによかれと思ってするのです。使命感をもってそれをする。しかし、彼の自己主張や非難はねたみから出ています。自分たちに対して熱心にならせて、上に立って支配したいだけなのです(参・がラテア4:7)。」

 聖会から帰り、今朝、台風の雨の中を畑に行きました。落花生の芽が出ているか、気になって仕方がありませんでした。千葉半立は、ほぼ出そろっていました。大まさりは、イマイチです(カラスを防ぐ糸を張り巡らせたのですが、敵は、蒔かず、刈らず、倉に納めもしないくせに、非常に賢いので、やられたかもしれません)。ジャガイモも早く収穫しなければなりません。葉に病気のような兆候が見られたので、北海道に行く前に慌てて収穫しましたが、日が暮れて、畝2列分が残っているのです。でも、もう十分に成長していて美味しいです。今は説教をすることと、畑仕事をすることは、私の心に同じ重さであります。北海道でも早く畑に行きたくて仕方がありませんでした。

 6月30日(土)午前10時から、「新スカルの井戸端会議」で話します。前回(5月)から会場が韓国YMCAから御茶ノ水クリスチャンセンター(OCC)に移りました。4階の会議室で、やはり雰囲気が違います。私は3ヶ月に1度のご奉仕で、前回(3月)から、次のようなシリーズで話しています。

 1「共に生きる生活への招待」ー聖書の人間観と生活共同体ー 
 2「地に根づき、地に仕えて生きる」ーエデンの園と福音の文化ー
 3「神の国を生きる小さき群れ」ー世から脱出する共同体ー
 4「初めの愛に帰ろう」ー最初期教会の愛の交わりー
 5「この希望は失望に終わらない」ーエデンから新しいエルサレムへー

 6月は、上記の2「地に根づき、地に仕えて生きる」ーエデンの園と福音の文化ーになります。畑を耕すようになって教えられたこともお話しするつもりでいます。ご一緒にお昼をいただいた後に、質疑応答の時間もあって、それがこの集会が「井戸端会議」たるゆえんです。どなたでも、どうぞおいで下さい。お待ちしています。

「意味が言葉の容量を超える時」:武満徹の言葉から

 「人間の発音行為が全身によってなされずに、観念の嘴(くちばし)によってひょいとなされるようになってからは、音楽も詩も、みなつまらぬものに」(武満徹)

 上記の引用は、朝日新聞の朝刊1面のコラム「折々のことば」(鷲田清一/1126/2018.6.1)からで、武満徹の著書『音、沈黙と測りあえるほどに』からとられたものです。

 鷲田は、武満の論旨を次のように短くコラムにまとめています。

 「吃音(きつおん)におけるドド、ヌヌといった音の反復は、声に出そうとして言葉と格闘せざるをえない肉体の挙動の一つだと、現代音楽家は言う。ため息や叫びと同じく『意味が言葉の容量を超える時におこる運動』であり、ときに『論理性を断ちき』りもする。詩や音楽が生まれるのも同じその運動からだと。」

 同じ日の「朝日川柳」には「風に舞う木の葉のような言の葉よ」(新井文夫)とありました。

 どこを見ても、攻めるも守るも嘴の言葉。キリスト教界はどうでしょうか。いや、私はどうでしょうか。何とか発音行為を全身でしたいと、愛し得ない者が愛するという言葉を身体に刻みつけようとしています。

 信仰の表現や神学においても、自分とは聖書解釈や認識の言語表現が違っていても、(自分の知らない世界を知る人が語る)「意味が言葉の容量を超え」ているところが、私への真の問いかけである場合があります。そういう場合には(いつもではありません)、自分の認識の枠組で、性急に相手を分類しないで、自分の眼鏡を外して聖書を読むと(というよりも、聖書を読みながらふと気づくのですが)、自分がまったく気にとめて来なかった、あるいは教理的に無理に自分の枠組に押し込めようとして来た神の言葉があることに気づきます。言葉のいのちはそこに動き、新たな信仰と思索の始まりや、時には新しい歌となります。
 

 

朝デボノート: 「主の恵みの年を告げるために」(レビ記25章)

 創世記からの聖書通読を志す者にとって、最初の難関ともいうべきレビ記において、ヨベルの年を告げる25章は、溢れる恵みのオアシスのように感じられます(*)。

 *現代の私たちがレビ記を理解しにくい理由は、私たちが言語においてもモノにおいても「聖」への感覚を喪っていること、私たちの信仰が共同体を持たない個人主義的なものになっていること、その2つにあると私は思います。レビ記を理解するために、そこに記されている詳細な規定を型として、キリストの福音の光で説明することは興味深いことかもしれませんが、私自身は、神が「聖」であるとは神の民との関わりにおいてどういうことか、また現代において、私たちキリスト者が何に「聖」を感覚し(私にとっては何よりも、まったきお方でありながら、傷つけられてささげられた神の小羊の十字架の愚かさですが)、その「聖」をどう生きるか、ということを想いながら読んでいます。

 ヨベルの年を告げるお方は、「わたしはあなたがたの神、主である」(17,38,55節)と、ご自身の民との契約関係を宣言されます。そこから定めの基本にある次の2点が導き出されます。

 1 「土地はわたしのものであり、あなたたちはわたしの土地に寄留し、滞在する者にすぎない。」(23節)

 2 「イスラエルの人々はわたしの奴隷であって、エジプトの国からわたしが導き出した者だからである。」(55節)

 神である主は、50年目に全被造物への解放を告げ、ご自身のものを、ご自身に買い戻し(贖いとり)、最初の状態を回復なさいます。この恵みの宣言は、「主のための安息」(4節)です。

 旧約聖書でヨベルの年が文字通り実行されたという記事を私は知りません。そこに、土地所有者や債権者の欲望や、奴隷や債務者の悪知恵(それも欲望)が働くからでしょう。

 イエス様は、ガリラヤ宣教のはじめ、故郷ナザレの会堂での説教で、聖霊の力に満たされて、捕われ人に解放を告げられました(ルカ4:18、参・レビ25:10)。主イエスは、イザヤ書の巻物を取り、「主の恵みの年を告げ知らせるためである」と、61章2節を朗読され、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ4:21)と宣言されたのです。イザヤ書58,61章は、ヨベルの恵みを告げています。

 主イエスが地上で宣教を始められたとき、「主の恵みの年」(ヨベル)が始まりました。主イエスは、十字架で全被造物の贖い(回復)のために、過越の小羊として血を流されました。それは新しい神の民の出エジプトでした。私たちは、やがて到来する万物が回復される日、義の住む新しい天と新しい地に向かって、地上を旅している寄留者です(参・使徒3:21, Ⅱペテロ3:13)。新天新地は、新しい創造における、神の安息の完成です。

 私たちがヨベルの恵みを生きるためには、全地は主のものであるという信仰と、主はご自身に従う者にはそのすべての必要を満たして下さるという信仰が必要です(18〜22節)。

 神の民である信仰共同体(教会)が、神のものであるこの地において、聖霊によって神が臨在する神殿としてヨベルの恵みを生きる、それが祭司の民として、燭台(メノラー)に常夜灯を絶やさずにいるということです(レビ記24:1〜4, 参・黙示録1:12,2:1)。
プロフィール

百姓とんちゃん

Author:百姓とんちゃん
牧師生活を経て、北の大地の信仰共同体で農耕生活の見習いをして後、千葉県で四街道惠泉塾を営んでいます。

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