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【朝デボノート】士師記を読む:ギデオンの「手の込んだ権力志向」について

 スカイプという文明の利器のおかげで、全国の(海外も含んで)召団員は、月の半分以上、朝4時から6時のデボーションを水谷先生に導かれて、聖書を1章ずつ読んでいます。現在は、余市(士師記)、札幌(マタイ福音書)、都賀(Ⅱ列王記)、丹波(ヨブ記)から発信されます。参加者は、その日の聖書箇所をあらかじめ読んで、教えられたことをノートにまとめておくことを求められ、一人ひとり当てられて感想を述べ、それを傾聴した水谷先生が、時には厳しく辛辣に、また時には温かい共感をもって、「教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練」(Ⅱテモテ3:16)のための牧会的な対話をするという形式です。最初の1時間あまりは、そこにいる人々に当たり、続いて全国の拠点の参加者に当たりますから、この学びは信仰の交わりでもあります。張りつめた空気の中での2時間はあっという間に過ぎます。

 水谷先生は、いっさい水増しせずに、苦さは苦さのままに、流血は流血のままに、神の思いにご自分の思いを重ねて、聖書を読まれます。また、参加者がどの御言葉について何を語っても、隅々のことに至るまで即座に明確に応答されるのには本当に驚かされます。それは単なる聖書知識ではなく(もちろん、その蓄積もありますが)、神の言葉をそのままに生きている霊的な親密さから湧き出る洞察で、その声は、ただ聖書を解説する声よりもオクターブ高いのです。このような場で聖書、とりわけ旧約聖書を1章ずつ読む機会が与えられていることは、私にとって大きな恵みです。

 この数日は余市からの士師記の学びでした。士師記の記述(3:7〜16:31)にはパターンがあります。「罪」(イスラエルは主の目の前に悪を行った)、「裁きとしての戦争」(主は◯◯という敵の国家の手に彼らを◯年間渡された)、「悔い改め」(しかし、イスラエルが主に向かって叫ぶと)、「解放」(主は彼らのために◯◯という彼らを救う解放者を起こされた)、そして、「士師が生きている間、◯◯年間は平穏であった」、しかしまた「罪」に戻るという記述のパターンが6度繰り返されます。そこに6人の主要な士師(オトニエル、エフド、デボラ、ギデオン、エフタ、サムソン)が登場し、また6人の他の士師(シャムガル、トラ、ヤイル、イブツァン、エロン、アブドン)について簡潔に触れられます。

 士師記を読みながら、私は今回、神様の忍耐ということを感じています。士師たちの業績には、子供向けの絵本の題材になるような勇壮なエピソードがありますが、彼らはいずれも、信仰の模範になるような人物(聖人)ではありません。士師記を読みながら思うのは、罪への裁きの厳粛さと、愚かで強情な反逆の民に対する神様の忍耐(恵みと憐れみ)の深さです。

 このところギデオンの事績から学んで来ました。英雄ギデオンの戦いを語ることは、ダビデとゴリアテの戦いとともに、教会学校のメッセージでの私のおはこでした。しかし、今回、ただ臆病者から勇者に変わったギデオンというだけでなく、彼の本来の弱さ、世俗性を強く感じました。人は、主がその人と共におられ(6:12)、主の霊に覆われて(6:34)御業に用いられますが、その人自身は何者でもありません。
 
 8章冒頭からの不平を言う者たちへのギデオンの毅然とした態度に、私は主が最初に語りかけた「勇者」(6:12)の姿を見たように思いました。そして、自分を王にしようとする民に対して、「わたしはあなたたちを治めない。息子もあなたたちを治めない、主があなたたちを治められる」(8:23)というギデオンの言葉に、彼の信仰告白の頂点を読む思いがしました。

 しかし、それに続く箇所に、ギデオンは、戦利品の金の耳輪を集めて、それと戦利品の紫布の衣服とでエフォドを作り、そのエフォドを自分の町オフラに置き(設置し)ました(21節のギデオンが敵将の「三日月の飾りを取った」も単なる勝利のしるしには思えません)。そして、すべてのイスラエルが、そこで「彼に従って」(新改訳2017、岩波訳「それを慕って」、協会共同訳「その場所を慕って」)姦淫にふけることになり、「それはギデオンとその一族にとって罠となった」(8:27)と書かれています。

 「主があなたたちを治められる」(8:23)というギデオンの強く明確な信仰の言葉から、「それ(オフラにおけるエフォドの設置)はギデオンとその一族にとって罠となった」(8:27)というこの箇所の結びとも言える言葉が、いかにも不釣り合いのように私には思えてなりませんでした。今考えるのは、すばらしい信仰告白をしたにもかかわらず、間違ったことをしたということではなく、ギデオンの信仰告白とオフラでしたことには繋がりがあるのではないかということです。

 オフラは、ギデオンの故郷であるだけでなく、ギデオンに顕われた主のために祭壇を築き、そこを「平和の主」と名づけた由緒ある場所です(6:24)。エフォド(エポデ)は、「裁きの胸当て」(出エジプト28:29)とも呼ばれ、託宣を問うウリムとトンミムが入っている祭司の祭服であり、後にダビデも祭司アビアタルが携えて来たエフォドでみこころを問いました(Ⅰサムエル23:6,9,30:7)。ギデオンは、「主があなたたちを治められる」ということの目に見える具体的なしるしとして、エフォドをオフラに設置したのではないでしょうか。しかし、設置されたエフォドは、民が祭司にみこころを尋ねるものよりも、それ自体が礼拝の対象となり、そこで宗教的な姦淫が行われるようになりました。そして、それはギデオンの死後、民がまたもバアルに従って姦淫し、「バアル・ベリト」(契約のバアル)を自分たちの神とする時代に繋がって行きます。

 「主があなたがたを治められる」と「言ってみせた」(水谷師)ギデオンですが、どのようなかたちでということにおいて——そのために「自分の町」オフラにエフォドを置くというかたちをとることにおいて——ギデオンは、実質的に自分を王にしようとする民の要求を聞き入れたということにならないでしょうか。私の聞きちがいでなければ——細部の聖書解釈のことではなく——水谷先生は(ギデオンの)「手の込んだ権力志向」と語っておられたのが心に残ります。権力者や指導者にとって非常に微妙で重要な霊的問題がそこにあります。

 士師記は、パターンに従って「ギデオンの時代40年にわたって国は平穏であった」(8:28)と記しています。その通りに違いなく、ギデオンの事績は記憶され続けますが、腐敗への種は、ギデオンの死後に蒔かれたのではなく、彼が引退後に住んだオフラにおいて、その生き方において、すでにギデオン自身によって蒔かれていたことを士師記は語ります。9章に書かれている息子アビメレクが68人の兄弟を殺し、悪行を重ねたことも、人間的にはアビメレクの野心によることですが、権力者として多くの妻と息子たちを持ち、神の民と異教徒が混在し(参・ヨシュア20:7,21:21)、「バアル・ベリトの神殿」(9:4,参・8:33)のある偶像礼拝の温床シケムの女を側女(アビメレクの母)にしたことに深く関わっています。つまり、エルバアル(ギデオン)存命中の平穏な40年に、士師自身の生き方において(!)、すでに民の腐敗は始まっていたのです。


 

 
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【朝デボノート】マタイ13章:「神の秘められた計画」の視点で読む

 「日本キリスト召団」(惠泉塾)では、聖書の福音を、天地創造の前に定められた(エフェソ1:3以下)「神の秘められた計画であるキリスト」(コロサイ2:2、参・エフェソ1:9他)として理解します。それは、「異なる者が、キリストにあって、互いに愛し合ってひとつになる」ことだと言い表わされます。この終末論的希望は、ただ人類のみに関わることではなく、キリストにあっての「万物の和解」(参・コロサイ1:20)、すなわち「全被造物の回復」(参・エフェソ1:10)であり、「虚無」(造られた目的を果たせずにうめいている)全被造物は、「神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます」(ローマ1:19)。やがて、「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」(フィリピ2:10)。

 このキリスト論的福音は、パウロ書簡(とりわけ獄中書簡)に明らかであり、聖書全体をナラティヴとして読むときに壮大なながめとして眼前に広がる神様の愛の物語です。福音派教会は、(正当/正統に)十字架における罪の赦しの福音を強調しますが(してきましたが)、そこが天国行きの切符を得るための信仰のゴールになり、私たちは何のために罪を赦され神の子とされたのかがあまり語られません。そのために、教会は、天国行きの切符をなくさないための待合室になっています。しかし、N.T.ライトが十字架の意味を考察した著書に「革命が始まった日」(The Day the Revolution Began)という書名をつけたように、復活に続く十字架の罪の赦しは、全被造物回復の福音(新天新地で完成する新しい創造)の始まりなのです。それは、人間と人類を隔てるこの世の壁を越えて、私たちが愛し合って生きるようにとの十字架の王座からの主の招きです。「実に、キリストはわたしたちの平和であります」(エフェソ2:14)。

 パウロが語る「神の秘められた計画」(ミュステーリオン トゥー セウー、新改訳2017「神の奥義」)を、私は「召団」に来て、福音書にも、はっきりと(意識的に)読み取れるようになりました。そのひとつの箇所が、きょう朝のデボーションで読んだマタイ13章です。

 マタイ13章には、よく知られた「天の国」のたとえが並べられ、天の国の福音をたとえで語られる理由と、たとえの説き明かしが主イエスご自身によってなされています。11節に「天の国の秘密(ミュステーリア)」(新改訳2017「天の御国の奥義」)ありますが、この「御国の言葉」(18節)はパウロの語る「神の秘められた計画」と無関係ではありません。その「天の国の秘密」について、主イエスは「多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかった」(17節)と語り、さらに預言者の言葉を引用してこう言われます。

 「わたしは口を開いてたとえを用い、
  天地創造の時から隠されていたことを告げる。」(35節)

 畑に蒔かれる種は、あるたとえの説明では「御言葉」ですが(18〜23節)、別のたとえの説明では「種は御国の子ら」であり、「畑は世界」(強調引用者)です(36〜43節)。18〜23節の「御言葉」も、ただ聖書の言葉、伝道の言葉というのではなく、主イエスがたとえによって語っておられる「御国の言葉」(御国の福音)であることは明らかです。「いろいろな魚」(47節、強調引用者)は、御国の福音(御国の子ら)によって、(ユダヤ民族を超えて)全世界から集められる神の民のことではないでしょうか(参・ヨハネ21:11*)。

 *リチャード・ボウカムは、153という特別な数字(三角数)について、エゼキエル47章背景に、その世界宣教的な意味を論じています。Richard Bauckham, The Testimony of the Beloved Disciple(Baker Academic:2007)271-284. 一粒の麦が地に落ちて死ねば(言うまでもなく、主イエスご自身の死)、「多くの実」(ヨハネ12:24、強調引用者)を結ぶと言われているのも、ただ救われる人の数のことではなく、全世界の「いろいろな」人々であることは、それに続く箇所で「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せよう」(ヨハネ12:32、強調引用者)と言われていることから読み取れます(ギリシャ人がイエスに会いに来たとき、主イエスは「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われ、そこから一粒の麦のお言葉につながることにも心を留めて下さい)。

 マタイ13章の文脈に注目すると、12章は「だれでも、誰でもわたしの天の父のみこころを行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」(50節)という御言葉で結ばれます。13章の最後は、イエスの故郷ナザレの人々が「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか」(55,56節)と言って、主イエスにつまずいたという記事です。つまり、13章の「天の国」のたとえは、前後を血縁、地縁による主イエスへのつまずきの記事に挟まれています。「天の国の秘密」は、血のつながりによって閉ざされた目には悟れません。「神の秘められた計画」を悟り、それを生きる者たちこそ、「天の国のことを学んだ学者」(マタイ13:51、新改訳2017「天の御国の弟子となった学者」)なのです。

 以前もブログに書きましたが、マタイが「神の国」を「天の国」と表現することに関して、マタイは、ユダヤ人に向けて福音書を書いたので、(律法に定められたように神の御名をみだりに口にしないために)「神」を「天」と書き表したとするのが長く受け入れられて来た——そして、今も受け入れられている——通説でした。福音派の学者ジョナサン・ペニントンが、その通説を覆す論文を書き(2007年)、私が余市に移り住む頃、そのリプリント版が本になって出されました( Jonathan T. Pennington, Heaven and Earth in the Gospel of Matthew, Eerdmans:2009)。ペニントンによれば、マタイは、罪に腐敗した「地」に対して、まったく聖であるもの、「地」を支配する秩序とは、まったく異なる「聖」なるものを「天」と言い表わしているのです(私はまとめを読んだだけですが、マタイの権威で、ICCのシリーズの注解書を書いている W.D. デイヴィーズが、最初は著者の問いの立て方自体が間違っていると考えたが、読み終えて、著者の説が正しいことが分かった、と言っています)。

 「天の国」の価値観は、この世を支配する価値観の真のいのち(愛)によるどんでん返しです。マタイ13章のからし種のたとえ(31〜32節)で、「空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる」という旧約聖書でバビロンのような大帝国の武力による世界支配に使われるたとえ(エゼキエル17:23,31:6,ダニエル24:12)が、からし種という家の裏庭のような卑近な生活の風景に結びつけられることに、私は、主イエスの透徹した愛のまなざし(強靭な抵抗の精神)を感じます(参・詩104:12)。

「それ見たことか」という思いについて

 「召団」(惠泉塾)には、福音派教会に信仰的ルーツを持つ兄弟姉妹が少なくありません。その多くは、教会では受けとめられなかった具体的な生活の問題を抱えて、すがるようにして「召団」(惠泉塾)に辿り着き、そこに最後の希望をつないで来た人々です。

 水谷先生は、他教会の信徒を積極的に誘うことをしません。「召団」の信仰は、いわゆる「普通の」教会に比べて、非常に個性の強い特徴的なものなので、容易くは関わりをすすめられません。私が役員を務めるオリーブ山教会ですと——教会間でいろいろあったからだと思いますが——他教会の信徒が主日礼拝式に出るのにさえ、所属教会の牧師の許可と役員会の面談が必要です。

 それでも、(どこの教会でもそうであるように)様々な事情から「召団」に転会する信徒はいますし、そのプロセスが必ずしも所属教会の牧師の意にそぐわなかったケースもあると思います。ましてや、ネット上ではどなたかが「召団」の牧師のすべての著作について「筆者の水谷氏の運営する集団『惠泉塾』は多くの福音派キリスト教団体からカルト認定されています。要注意」というコメントをつけているほどで、「召団」(惠泉塾)をめぐるキリスト教界の風評は必ずしも芳しくないようです(自分の信仰の歩みにおいて、「カルト認定され」た集団の宣伝塔になった元福音派牧師のように見られる日があるとは思ってもみませんでした)。

 水谷先生がいわゆる普通の教会やその牧師に対して強く批判的なのは確かです。私のような宮仕え牧師であった者は、(自分はともかく)「先生、そんな人だけではありません」と叫びたくなることもあります。しかし、それは神がこの時代に遣わされた預言者の捨て身の生き方から発せられる、全存在を傾けて対峙する言葉なのです。真の預言者は、文字通り「不眠不休、厳粛の人」(アブラハム・ヘッシェル)です。その語らせられる言葉は、その人の存在や生き様とひとつであり、普通、講壇で語られている言葉とはオクターブが違います。イザヤやエレミヤなど、旧約聖書の預言者たち、パウロや、そしてイエス様もそうでした。神が遣わされる預言者というのは、みなそういう稀有な存在です。「召団」(惠泉塾)に足を踏み入れて9年目、私はまだすべてにおいては水谷先生と考えを同じくできないでいますが——また神の召しにおける立ち位置の違いも自覚していますが——神の預言者の生き様と不可分な宣教の言葉に向き合わされ、その惹きつけ、また遠ざける存在の気迫に圧倒され続ける日々です。聖書においても、教会の歴史においてもそうであるように、神の真の命が流れるところは、その時代の正統派からは「カルト認定」されて来ました。どっちが正統派かというようなことではなく、その時代における信仰告白と主に従って生きることにおいて、そこは本当に紙一重なのです(時代の正統派であったカトリック教会から「異端・カルト認定」されたプロテスンタントが、やがて正しい教理と教会の支配秩序を継承するだけの生温い正統派の国教会となり、アナバプテスト等の生活を賭けて徹底して主に従おうとする集団を「異端・カルト認定」したように)。

 今朝のデボーションで、ある人が、「召団」(惠泉塾)に信徒をとられた(?)ある牧師たちは、「それ見たことか、だから気をつけろと言ったのに」と言える機会を願って見ているので、私たちはそういう目があることを意識して、自らを律して、愛に生きなければならないというようなことを言っていました。

 そんな牧師が実際にいるかどうかは分かりませんが、私は、その言葉に福音書の記事を思い起こしていました。ひとつは、このブログでももう何度も書いたことですが、マルコ9章のイエス様が汚れた霊に取りつかれた子どもを癒された場面です。イエス様の弟子たちがその子を癒せなかったのを見て、群衆が見ている前で、律法学者たちと弟子たちの間に議論が始まりました。互いの立場から自己正当化の議論がなされる中で、苦しんでいる子はそこに放っておかれます。私はそこに現代の教会の私たちの姿を見ます。書物にも論議にも——自分(たち)の関心事をめぐって——観念や認識の言葉は豊富ですが、「苦しんでいる子(愛するという具体的な問題)」に向かって、自分を捨てて1歩も踏み出そうとはしません。もうひとつは、ヨハネ9章の生まれつき目が見えなかった人がイエス様によって癒された聖書箇所です。あそこでも、イエス様を心地よく思わない正統派(ファリサイ派)の人々は、ひとりの人の目が開かれたという事実に目を向けようともしないで、延々と安息日をめぐる神学的に正しい理解を論じているのです。彼らはきっと、目の見えなかった人がまた見えなくなることすら望んでいるでしょう。「それ見たことか、 だから気をつけろと言ったのに」と言える機会を得るために。そのとき、正統派の顔は悪魔の顔になっています。

 他者を批判するように書いて来ましたが、私はその顔を自分自身の中に見ます。その状況や場面で、何が大切なものか、誰が大切な存在か、いやどなたが大切なお方かを忘れて——自らの正統性を盾にして——人や集団に向いている顔は、他者に対する「召団」(惠泉塾)にもあり、また「召団」(惠泉塾)内の人間関係にもあり、何よりも私自身のうちにあるのを、私は知っています。そして、それが神の御子を十字架につけた人間の顔であり、聖書はそれを「ねたみ」と言います。人は自分の顔だけは生涯見ることができませんが、高くなっている鼻の先ぐらいは、なんとか見えるのではないでしょうか。

 

 



【朝デボノート】フィレモンへの手紙を読む

 四街道惠泉塾にゲストを迎えた朝、デボーションでこのところ続けて読んでいるマタイによる福音書ではなく、フィレモンヘの手紙を読みました。1度で完結できるからです。

 その日のゲストは、関東地区の他の惠泉塾で一緒の生活を始めたばかりの70歳の男性と、40代の(今なら)青年でした。青年は、私ども夫婦が余市にいた頃から交わりがあり、幾度となく世をさすらって、最近また惠泉塾で新しい出発をしようとしています。それぞれの境遇や関係が、フィレモンヘの手紙を生活の中で読むようにさせます。生活の交わりの中で、仲間と共に聖書を読むとき、ひとり書斎で釈義したり、思いを巡らすのとは違う語りかけを聴き、新しい心で交わりに生きるように促されます。

 フィレモンの手紙は、主人のもとから逃亡した奴隷オネシモをめぐって(*)、獄中のパウロから、オネシモの主人であるフィレモンに宛てた個人的な手紙です。手紙は「わたし」(パウロ)、「あなた」(フィレモン)という関係で書かれています。しかし、パウロが「自筆で書いている」(19節)という手紙の冒頭の挨拶には、次のように記されています。

 「キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、わたしたちの愛する協力者フィレモン、姉妹アフィア、わたしたちの戦友アルキポ、ならびにあなたがたの家にある教会へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストから恵みと平和が、あなたがたにあるように。」(1〜3節)

 つまり、フィレモンヘの手紙は、きわめて個人的な書簡でありながら、「パウロと兄弟テモテ」から、フィレモンが属する「家にある教会へ」宛てられているのです。パウロは「オネシモをわたしと思って迎え入れてください」(17節)という切なる祈りと願いを、「パウロと兄弟テモテ」の祈りと願いとして、ただオネシモの主人のフィレモンに対してだけでなく、教会に伝えて、フィレモンと共に祈り、オネシモを愛の交わりに迎えるように祈っています。それはすなわち、「神と主イエス・キリストから恵みと平和が、あなたがたにあるように」——教会が三位一体の神様の愛の交わりの中に生きるようにという祈りです。結びの言葉(23〜25節)にも表されるように、パウロはキリスト者個人の生き方というのではなく、どこまでも教会という愛の交わりを造ろうとしています。それは、四街道惠泉塾のその朝、寝食を共にして暮らす年齢も境遇も違う2人のゲストの間のこと、また私たち夫婦とその2人のことでもありました。私は、フィレモンへの手紙を読みながら、ヨハネの手紙の御言葉を思い起こしていました。

 「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」(Ⅰヨハネ1:3)

*このことに関して、田川健三氏は彼の個人訳の新約聖書の解説に次のように書いています。「なお、ずい分以前からこれは、奴隷のオネーシモスが主人のところから逃亡し、パウロのもとに身を寄せた、それをパウロが説得して、主人のもとに帰らせることにし、フィレモンさんに手紙を書いて、そちらにもどったら奴隷から解放してやってくれ、と言っている、と解説されてきた。これが事実だとすれば、パウロ崇拝者にとっては有り難いお話だから、神学者の皆さんは何も考えずにこの説明を継承し続けた。しかし、原文をよくお読みになって下さい。そんなことは、原文にはどこにもまったく書いてない!」
 
 上記の通説に対する田川氏の推測(というよりもほぼ断言的な論)はこうです。「ローマ拘禁中のパウロに、フィレモンというやや豊かな人物が何かの用事で自分の奴隷のオネーシモスを遣わした。ところがパウロは、奴隷が一人いてくれれば便利だから、主人のフィレモンさんに断りなしに手元において仕えさせていたらしい。そこにフィレモンさんから手紙が来て、オネーシモスをすぐに帰らせてくれ、と言ってきた。それでパウロは不平たらたら、そう言われたらしょうがないから送り返してやるよ、と短い手紙を書いた。」

 私は、田川訳の新約聖書を参照することが多く、田川氏の物言いに触発されることもありますが(正直好きとは言えませんが)、上記の説はそれこそ私なりに原文に照らして納得しかねます。確かに(逃亡奴隷だとか)「そんなことは、原文にはどこにもまったく書いてない」のですが、田川氏の言っていることも——「フィレモンさんから手紙が来て」というようなことを含めて——「原文にはどこにもまったく書いてない」ように思えます。田川説では、「私が囚われの中で生んだ私の子オネーシモス」(10節、田川訳)という言葉はあまり説明がつきませんし、「我らの同労者、愛する協力者フィレモン」(1節、田川訳)は、「かつてあなたにとって無益な者であった」(11節、田川訳)奴隷をパウロのもとに遣わしたことになります。フィレモンが——それがパウロの言葉だとしても——「役に立たない者」(11節、新共同訳、新改訳2017)をパウロに遣わしたなんて、「何らかの用事」が何であったにしても、私には考えられません。ただ、「パウロ崇拝者」が、パウロを擁護して「そちらにもどったら奴隷から解放してやってくれ」と言っていると考えるとしたら、そこは——その可能性は否定できませんが——私にも少し疑問の余地があります。「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、愛する兄弟として」(16節)という言い方は、必ずしも奴隷という社会的身分からの解放を意味しないと思えるからです。


 
 





N.T.ライト著『驚くべき希望』(あめんどう)出版記念座談会に出席して

 10月18日(金)、御茶ノ水クリスチャンセンターで開かれた、N.T.ライト『驚くべき希望』(あめんどう)の出版記念座談会に出席しました。午後7時〜9時という、普段の就寝時間に重なりますが、思うところがあり、睡魔に備えて、Black & Black ガムをポケットに入れて臨みました。

 もう30年ほど前、ロン・サイダー著『飢えの時代の富めるキリスト者』(聖文舎)の出版を記念して、著者のサイダーの来日講演会が御茶ノ水クリスチャンセンターで行われた際、私は初めて訳者の御立英史さん(当時はダイアモンド社で『地球白書』等、環境問題を中心に仕事をしておられました)と小渕春夫さん(現あめんどう社長兼用務員)に会い、その出会いをきっかけに「クリスチャン市民の会」や「あめんどう」を一緒に立ち上げました。それはまた、拙書『終末を生きる神の民』(初版1990年:いのちのことば社)の出版にも重なります。今回、停年退職して、あおぞら書房をなさっている御立さんが、そこから『飢えの時代の富めるキリスト者』の最新版と、この暴力(暴虐)の時代に、イエスを主と告白するクリスチャンがどう生きるべきかについて書かれたサイダーの新刊の邦訳出版を計画していることを知らされました。私には何か自分(たち)の歩みの大きな円環が閉じ、また新しい出発(人生の仕上げ)に招かれているように感じました。そこで出版記念座談会の前に御立さんにお会いして、よもやま話をしたいと思ったのでした。

 あめんどう主催の記念座談会については、もちろん孤軍奮闘して小さな出版社を守ってくれている旧い仲間の小渕さんにお会いしたいということもありました。それだけでなく、座談をなさる『驚くべき希望』の訳者であられる中村佐知さん、ライトの下で学ばれ、『新約聖書と神の民』(上・下:新教出版社)の訳者であられる山口希生先生、そしてライトに造詣の深い小嶋崇先生にお目にかかりたいという願いもありました。お三人にはまだお目にかかったことがありませんでした。

 中村佐知さんに翻訳の感謝を直接お伝えできたのは何よりの喜びでした。私はライトの文章のリズム(パトスを伴った息づかい)に励まされることが多いのですが、それは「ここにも信じている人がいる」ということを感じる励ましで、最近福音書を読みながら感じるようになったリズムに似ています。信仰書の読書で、まして神学書を読んでいて、そういう認識以上の信仰の励ましを感じることは稀です。ライトの文章が持つそのリズムを日本語に移すことは、並大抵のご苦労ではないと思います。私たちのためにそれを成し遂げて下さった訳者にーー私にとって英語でライトを読むことは容易ではありませんのでーー心から感謝したかったのです。今回の記念会は、おそらく訳者の一時帰国に合わせて催されたもので、彼女の帰国は、中村佐知著『隣に座って スキルス胃がんと闘った娘との11か月』(いのちのことば社)の出版とも関わっているのでしょう。ブログ「ミルトスの木かげで」にも書いておられますが、中村さんご自身がライトの文章や講演から伝わるいのちのリズム(律動)を呼吸し、活ける希望に励まされて日々を歩んでおられるのを感じて、お顔を拝見できて嬉しかったです。あめんどうのためのお仕事にも感謝します。

 山口希生先生からは学ぶことが多かったです。ただ学者の言葉ではなく、先生が伝道者であられ、しかも福音派の伝道者の心で語っておられることを感じて嬉しく、また心強く思いました。最も心に残ったのは、「ライトに対して(福音派からの?)批判(非難)にはどういう理由がありますか」というフロアからの質問に幾つかの点で答える中で、聖書学(歴史学を含んだ)と伝統的な教義(教理)との緊張について語られたことです。きちっとかたちが整えられた伝統的な教理の体系に対して、聖書学が新しい発見(方法論の脱構築による釈義や解釈)をもってそれを破る緊張関係のことです。

 それはいわゆるアカデミックな聖書学というだけでなく、私が水谷先生の宣教の言葉に感じる緊張にも似ています。私は神学校で教育を受けました。私が学んだ神学校は、何らかの教派的理解や背景をもった組織神学よりも、原語からの聖書釈義を重んじる超教派の神学校でした。それでも穏健カルヴァン主義とでも言うべき教理の理解がありました。私にはどれだけ教理の幅を広げたとしてもーー良い悪いではなくーー聖書を教理体系や統一性の枠で理解しようとする思考の慣しがあります。水谷先生にも聖書全体を理解する大きな枠組があり(その枠組の理解に私は共感します)、いつもそれに即して聖書を語られます。しかし、それはただひたすら神の言葉に沈潜することによって獲得されたもので(半世紀にわたる早朝4時間のデボーション!)、いわゆる神学教育を受けていない先生は、個々の言葉を神学体系的に統一しようとはなさらず、時々に神様から示されたことを語られます。それが私の持っている神学体系からは矛盾に感じられる場合があります。しかし、実はそれは聖書自体が孕んでいる人の目に映る矛盾でありーー神学的認識でつじつまを合わせることよりもーーその緊張の中に生きることにこそ信仰のいのちがあるようにも思えるのです。

 ライトの場合、義認論や贖罪論や終末論(言うまでもなくすべてはイエス・キリストにおいてひとつにいのちで関わっています)、さらには大きな枠ではナラティヴとして聖書全体を読むということがーー言うまでもなく、大前提としての聖書論を含めてーー(分かりやすく言えば)「なんでいのちのことば社がライトの本なんか出すんだ」という意義申しだてに関わっているのでしょう。もっとも、山口先生も仰っていたように、「ライトが語っているようなことを言っているのはライトだけではない」のですが、ライトという熱量のある宣教的存在の影響力の大きさが問題にされるのでしょう。その宣教的パトスゆえに、ライトは、いわゆるリベラルな学者たちからは、 伝統的な教義を擁護する一般向けの本を量産する保守的弁証家として非難されます(それでは、その人々がライトに学術的に向き合えるかは別ですが)。

 小嶋崇先生は、私が今よりも内的な促しによってブログを書いていた頃に、ご自身のブログ「大和郷にある教会」で当ブログを紹介して下さった方で、お目にかかれて幸いでした。ライトを批判する多くの人が、ライトについて書かれたものを読んで非難しているように思えるのに対して、小嶋先生は、とにかくよくライトの主著を原語で味読して、ライトを深く理解しておられます。先生の言葉で印象的に心に残ったことがあります。質疑応答の時間の最後に、フロアから「教会ではクリスマスは盛んに祝われるが、むしろ大切なのはイースターであり、また復活を記念する週毎の主日であるのだから、私たちはその祝い方を考え直さなければならないのではないか」というような意見が出されました。それは復活の意義を語るライトの主張にも即していますし、ライトを読まずとも誰にも異存のない意見でしょう。ところが小嶋先生は、自らマイクを求めて、静かな口調に力を込めて「それは簡単に言ってはならなことだ」と言われました。イースターの衝撃ということ、それは私たちにペンテコステが起きると同じようなことで、年に1度のイースターをクリスマスなみに盛大にとか、毎週の主日礼拝のあり方をどうのとか、そのように簡単に言えることではない、と言われたのです。私はそれはその会を締めくくるにふさわしい非常に重要な発言だと思いました。御茶ノ水クリスチャンセンターの一室で、ライトの聖書解釈や神学について語り合った私たちは、そこでただ観念的なやり取りに時間やアイディアを消費するのではなく、「私たちにペンテコステが起きると同じこと」につながらなければならないという小嶋先生の言葉から自分(たち)の教会生活、信仰生活を新しく始めなければならないのです。それがライトを読むということ、いや自分の生活と信仰の伝統の中でライトを読むということなのです。

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百姓とんちゃん

Author:百姓とんちゃん
牧師生活を経て、北の大地の信仰共同体で農耕生活の見習いをして後、千葉県で四街道惠泉塾を営んでいます。

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