【聖書講話】マタイ5:14〜16「あなたがたこそ世の光」(2018.2.10. 惠泉塾友の会全国集会、於・天城山荘)

 マタイによる福音書5章14〜16節、主イエス様の山上の説教のお言葉が与えられています。お読みします。
 
 「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前で輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
 
 よく知られた御言葉です。与えられた御言葉に入る前に、山上の説教を理解するために大切なことを幾つかお話しします。いわば前菜ですが、前菜だけで5皿もあります。
 
 まず第1に何より大事なことは、主イエス様は、この説教を誰に向けて、誰に対して語られたのか、山上の説教の第一の聴衆、聴き手は誰かということです。5章1,2節をご覧下さい。
 
 「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。」 
 
 舞台はガリラヤの小高い丘です。見下ろせばガリラヤ湖が見えます。主イエス様が丘を登って行かれます。余市豊丘の南斜面のような丘です。後ろに弟子たちが続きます。イエス様を追い求めて各地から集まった大勢の群衆もぞろぞろとその後に続きます。 
 
 丘の中腹にイエス様は腰を下ろされます。弟子たちが近くに寄って来て、師を取り囲みます。多くの弟子たちです。女性たちもいたでしょう。聖書の教師が女性の弟子に語ることは、当時はまったく考えられない驚くべき光景です。
 
 「そこで、イエスは口を開き、教えられた。」——原文は「彼らに教えられた。」——すなわち、近くに寄って来てイエス様を取り囲んだ弟子たちに教え始められた。 
 
 お分かりですね。山上の説教は、イエス様が、ご自身に従う弟子たちに向けて語られた教えです。「イエス様は主である」と信じて、天のお父様の家族とされた者たちに——今で言えば私たちクリスチャンに——天の御国の生き方や価値観を教えられたメッセージです。これがまず第1に大事なことです。
 
 それが第2に大切なことにつながります。山上の説教は律法ではなく福音であるということです。よくこういう言い方を聞きます。山上の説教が求めることはあまりにレベルが高い。到底実行は不可能だ。そこで私たちは自分が罪人であることを知って、イエス様の十字架の罪の赦しを信じて救われるのだ。——これは山上の説教を律法として理解しているわけです。罪の自覚を生じさせる律法としてイエス様の説教を読んでいる。
 
 そういうことはあるでしょうね。山上の説教を読んで自分の愛のなさに打ちのめされる。そこで十字架の罪の赦しにすがるということ。しかし、山上の説教における天の父のみこころは、イエス様を信じて罪を赦され、救われた者が、聖霊の力によって、その教えを実践して生きることにあります。これは山上の説教と福音の理解において決定的に重要なことです。
 
 説教の結論、7章の終わりの御言葉をご覧いただけますか。24節です。「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」「わたしのこれらの言葉を聞いて罪を自覚する者は」ではありませんね。「行う者」です。山上の説教は、イエス様を主として信じた弟子たち(クリスチャン)に語られた福音の教え、御国の生き方です。律法ではありません。
 
 そうだとすれば、山上の説教は、世に言うただの崇高な道徳でもないですね。たとえば、人間が血を流し合っている場所や地域があります。愛する人を敵に殺された人々がいます。どちらにも大変な悲しみと傷があります。時には長い歴史に根づいた相手への憎しみです。そこで誰かが「私たちの敵を愛そう」と言ったとします。仲間や同胞は「本当にそうだ」と応じるでしょうか。愛する者を殺された人は、「そうだ。そうしようじゃないか」と応えるでしょうか。 そんなことはありません。殺人、虐殺、流血の現場では、「敵を憎め」「報復せよ」「死刑でも足りない」が個人と集団の正義であり道徳です。人間感情です。私たちのご近所でも同じですね。人が集まって誰かの悪口を言っている。もっともな理由もある。そういう場で「あの人を愛しましょう」と言えばどうなりますか。普通は、その人も仲間はずれにされ悪口を言われます。山上の説教は、そういう人間社会の現実の中で、聖霊の力によって、私たちクリスチャンを愛の実践へと招く福音の教えです。
 
 それと関わって第3のことですが、5章1節に「イエスは・・・山に登られた」とありますね。マタイ福音書において「山」は特別の意味を持ちます。モーセはシナイ山で神様から律法(十戒)を受けました。イエス様は「山」において律法の本当の意味を教えます。福音書記者マタイは、イエス様は第2のモーセとして描きます。山上の説教で、イエス様は驚くべき言い方をなさいます。「あなたがも聞いているとおり、・・・と命じられている。しかし、わたしは言っておく。」——預言者も律法学者も、モーセであっても、「わたしは言っておく」という言い方はしません。できません。してはなりません。「と言われている」、「と命じられている」とだけ言うのです。 山上の説教の最後、 7章28節に「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった」とあるのは、「しかし、わたしは言っておく」という、その言い方のことです。イエス様はモーセとは違い、律法の要求をその本当の意味において、完全に守られました。そして、まったく罪のないお方として、私たちの罪の身代わりに十字架で死んで、甦えられました。救いの条件をすべて満たした上で、聖霊のきよめによって、私たちを父なる神様の前に愛に生きる者に造り変えて下さる救い主です。そうしてイエス様は、地上の全生涯によって律法を完成されたのです。
 
 5章20節をご覧下さい。「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることはできない。」——この「律法学者やファリサイ人の義にまさる義」という言葉は、山上の説教を理解する重要な鍵です。「律法学者やファリサイ人の義」は、どこまでも自分たちを立てる人間の義ですね。それに「まさる義」とは、「憐れみに生きる」ということです。聖書の「憐れみ」は、「憐れんであげる」という上から目線の心の動きではないですね。気の合う仲間内の情愛でもありません。人間の情愛は、深ければ深いほど人を分け、隔てます。 しばしば愛情深い人の情動が教会の問題です。聖書が言う「憐れみ」は、天のお父様のように、内と外で人を分け隔てしない愛です。「憐れみ」は、自己犠牲の愛(アガペー)という行為を生み出す、聖霊によるはらわたの動きです。
 
 5章48節を見ていただけますか。「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」この「完全」(テレイオス)も山上の説教を理解する鍵ですが、それは道徳的に非の打ち所なく完璧(パーフェクト)であるということではありません。私たちの天の父のように、人を内と外、敵と味方、好き嫌いで分け隔てしない、二心がないという意味での「完全」さのことです。たとえ相手が敵であっても、好きでなくとも、嫌いであっても、天のお父様のように、イエス様のように、はらわたが痛まずにはいない憐れみ、隣人への愛です。このことはきょうのお言葉に言われている「立派な行い」の意味を理解する上でも大切です。
 
 では次に4皿目の前菜です。5章1節「イエスはこの群衆を見て——つまり、彼らや彼女たちがついてくるのを見ながら——山に登られた」と言われています。イエス様は弟子たちに向けて語っておられます。しかし、その弟子たちを取り囲むようにして、多くの群衆もイエス様のお話に耳を傾けていました。
 
 「この群衆」と言われているのは、4章の終わりに書かれている人々でしょう。「ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側」から集まって来た大勢の人々。これは当時のパレスチナ地方のほぼ全域、ユダヤ人ではない異邦人の地域も含まれています。福音書を読むと、イエス様は実にしばしば異邦人の地に足を踏み入れておられます。様々な病気や苦悩、家族の問題を抱えた人々が、イエス様の後を追ってガリラヤの丘に集まって来ました。そこには宗教的指導者たちやローマの官憲のような、イエス様を監視する者たちも混じっていたでしょう。
 
 見ていたような話をしますが、イエス様を中心にして、まず弟子たちがいますね。その弟子たちの後ろを大勢の群衆が取り囲んでいます。イエス様は、群衆にも目を配りながら、彼らを弟子のところに招くようにして語っておられます。実際、お言葉に引き寄せられるようにして、弟子たちのところに来て座る人もいたのではないでしょうか。弟子たちも背中に悩み苦しむ人々の存在を感じながら、説教に耳を傾けていたはずです。群衆の中には愛する家族や友人がいたかもしれません。このガリラヤの丘の弟子たちの姿が、世にある教会の姿です。そしてそれはまた、今ここで御言葉を聴いている、この小さな群れの姿でもあります。皆さんもご自分の背中に愛する家族や友人、今の世界や社会を感じながら、この天城の山を下りれば、そこに遣われる者として、主イエス様の御言葉に耳を傾けておられるはずです。
 
 最後に、第5にもうひとつ触れておきたいことがあります。それは当時のイスラエルの社会政治的な情況と、山上の説教が語られたガリラヤ地方のことです。皆さんご存知のように、イスラエルは当時、ローマ帝国に支配された植民地でした。考えてみれば、神の民イスラエルは、ごく短い解放の期間を除けば、もう600年も700年も世界の大帝国に支配され続けていました。日本の歴史で今から遡れば、紀元1200年ですから、鎌倉時代ですか。想像すらできませんね。それは日々の生活に重くのしかかる現実です。 外国に奪われた地の現実。ガリラヤは、首都エルサレムから見れば北方の辺境の地です。あの辺は異邦人臭いと中央から蔑まれた地方です。過激派や不満分子による反ローマの民族運動が煮えたぎる場所でした。このことは山上の説教の理解において、やはり大事なことです。
 
 たとえば、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(5:39)、「だれかが、1ミリオン行くように強いるなら、一緒に2ミリオン行きなさい」(5:40)というような主のお言葉の背景には、身近な現実としてローマ兵による暴行や横暴があるはずです。手の甲で右の頬を打つのは、この上なく相手を侮辱する行為です。昔、ある政治家が「キリストは、ならば左の頬を向けよなどと言っておるが、宗教家はともかく、そんなドアマットみたいに踏みつけられるだけの弱々しい態度で現実の世の中を渡って行けるか」と揶揄しました。しかし、外国に奪われた地では、それが日常の現実でしょう。誰も抗えない。そういう中で、左の頬を相手に向けるのは、決して弱々しい態度でも、嫌味な態度でもありません。意志的な愛によって人間の尊厳を示す、強い心の態度です。「あなたが殴る私も神に造られた人間です。私を殴るあなたも神に造られた人間ではありませんか。」——マハトマ・ガンジーやマーチン・ルーサー・キングがとった非暴力、無抵抗の愛の立場。際限ない復讐の連鎖、暴力の螺旋を身を投げ出して断ち切る。キング牧師は言いました。「『目には目を』という古い戒めを守っていたら、世の中の人々はみんな目が見えなくなってしまいます。」——このことも、きょうのお言葉の「立派な行い」に関わります。
 
 さて、5皿の前菜はそこまでとします。消化不良になりそうかもしれませんが、与えられた主イエス様のお言葉を味わいましょう。
 
 イエス様はガリラヤの弟子たち、ご自身に従う辺境の小さな群れに言われました。
 
 「あなたがたは世の光である。」——原文は強調した言い方です。「あなたがたこそ世の光である。」 
 
 目を閉じて主のお言葉を黙想します。2つのながめが浮かんで来ます。1つは、イエス様の目にこの世は闇の支配下にあるということです。サタンが力をもって働いている霊的な闇です。闇は光を偽装します。明るく輝いて見える闇があるのです。闇はキリストの姿もとります。人を呪縛する偽りの力。それをあばくのは、まことの光、命の光、まことの愛であるお方しかありません。
 
 もう1つのながめ。イエス様は、ガリラヤの小さな群れに、「あなたがたこそ」と呼びかけておられます。「あなたがたこそ」——そこに「世の光」であるべき者たちが、その役割を果たしていない現実が言われているのではないでしょうか。「世の光」として召された民が世の闇に溶け込み、そこで眠ってしまっている。
 
 「山の上にある町は、隠れることができない。」——山の上にあるエルサレムの町の灯りは確かに周囲から隠れることなく輝いている。しかし、神の都エルサレムは主に託された世を照らす光の使命を果たしていない。家の中ではランプの灯りは燭台の上に置かれて、確かに家中を照らしている。しかし、その家に住む民はまるで燭台を升の下に置いているようだ。家族が愛し合えない。その家に世の闇の中で苦しみ悩む人を迎え入れられない。
 
 クリスチャンは、よく世の闇の深さを語ります。確かに今は闇の時代です。人間の根が腐り、人間のかたちが崩れて来ています。人間社会が欲望の濁流にのまれ流動化して、舟は滅びの滝壺に向かっています。しかし、神様に背を向けている世が闇なのは当然のことです。 この世がどんなに暗くとも、世の闇が本当の問題ではないのです。神様にとって、世界が闇であることの本当の問題は、「世の光」として召された民が、「世の光」になっていないということにあるのではないでしょうか。
 
 ここで大事なことは、「あなたがたこそ世の光です」と言われたとき、イエス様は、旧約聖書のイザヤ書の御言葉にご自身の息を重ねておられるということです。2箇所だけ開いてみます。
 
 イザヤ42:6「主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として、あなたを形づくり、あなたを立てた。」
 
 イザヤ49:6「わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。」
 
 ここで預言者イザヤは「神の秘められた計画」を伝えています。主は小さな民であるイスラエルを選んで召し出された。それは主の愛を伝える諸国の光、国々の光にするためだった。しかし、神の民イスラエルは、世界の光になるよりも、かえって異邦人との間に光を遮る壁を高くした。自分たちの狭い家の中で、光を升の下に置いた。それによって、闇に閉ざされた異邦人の世界は、啓示の光を知ることができなかったのです。
 
 イザヤは預言して言いました。主はみこころを行うメシアを苦難の僕として世に与えられる。そのお方こそ、異邦人を照らすまことの啓示の光、まことのイスラエル、そのお方の御名によって諸国の民が父を礼拝するまことの神殿である。
 
 「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。国々はあなたを照らす光に向かい、王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。」(イザヤ60:1~3)
 
 福音書記者マタイは、このイザヤの預言の光に照らされてイエス様を伝えています。4章14〜17節をご覧下さい。
 
 「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『ゼブルンの地とナフタリの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた。」
 
 山上の説教冒頭の「幸いなるかな」という至福の教えにおいても、イエス様は預言者イザヤの啓示の光の中で語っておられます。
 
 「あなたがたこそ世の光である」—— 神の民が世に取り込まれ、世の闇に目をくらまされています。まことの「世の光」であるイエス様は、ご自身に従う小さき群れを「世の光」として召し出されます。よろしいでしょうか、謙遜に厳粛に聴いて下さい。「あなたがたこそ世の光である」——これは今、主イエス様が札幌キリスト召団に、惠泉塾に語りかけておられるお言葉です。
 
 それでは、私たちは、どのようにして「世の光」であることができるのでしょうか。16節のお言葉に耳を傾けましょう。
 
 「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためです。」
 
 「あなたがたの光」、それは「あなたがたの立派な行い」です。
私たちが「世の光」になるのは、ただの言葉や教会行事、イベントによるのではありません。それは「あなたがたの立派な行い」によります。新改訳や岩波訳は「良い行い」と訳しています。「立派な行い」、「良い行い」というのは、どういう行いでしょうか。
 
 ギリシャ語には「立派」とか「良い」ということを表す言葉が主に2つあります。1つは「アガソス」という言葉で、外側から善悪の物差しにあてはめて「良い」という意味です。見かけ上は良い行いでも、いかにもこれ見よがしで、嫌な臭いがする、という良い行いもありますね。律法学者、ファリサイ派の義、自分を立てる義はそうでしょう。よく私たちは「あの人はパリサイ的だ」と思ったり、言ったりします。ただそういう自分も、自分の義を立てることにおいては、十分にパリサイ的かもしれません。人は自分が発する臭いには気づかないのです。良い行いも実はそうでしょうね。
 
 ここで使われている「カロス」という言葉です。「カロス」は、麗しい、魅力的、美しい(ビューティフル)という意味での「立派」「良い」ですね。天の父のように人を分け隔てしない、神様の目に麗しい行いのことです。

 先週の土曜日、美しいものに心打たれました。知人に招かれて御茶ノ水キリスト教会館で開かれたコンサートに行きました。本当に久しぶりに音楽の感動を味わいました。今人に会えば熱くなってその話をします。家内は被害者です。ゴン・ミンさんという若い韓国人のピアニストがいます。初めて会いました。クリスチャンです。韓国のK-POPシーンでキャリアを積み重ねていた人。韓国で東日本大震災の惨状をニュースで見てショックで、何かできないかと思ったそうです。自分がK-POPの世界で活動して来たのも神様からの贈り物で、自分のためではないことに気づいた。何もできない彼は、日本のドラマを観て日本語の猛勉強を始めます。そして、2013年に日本に来て、初めて被災地でコンサートをします。それからは毎月のように来日し、音楽による慰めを届けるようになりますが、それだけでは足りず、家族とともに日本に移り住むのです。まず2年間、日本語学校に通って、実に流暢な日本語を話すようになります。彼の日本語の息づかいは、ただ勉強や生活の慣れによるものではなく、日本(人)に対する愛の呼吸ですね。

 日本のファミレスに行くと、よくジャズが流れている。日本人はジャズが好きなのだなと思った。彼自身は、クラシックを土台にして、K-POPの世界にいて、ジャズには縁がなかった。しかし、日本人を愛する彼は、世界的なジャズピアニストの小曽根真さんが教えている国立音大でジャズを学びを始めます。小曽根さんは、そこでゴン・ミンさんの心に触れて感動するのです。「ゴン・ミンくんは、僕にも自分の音楽が目指すものについて、もう一度思い起こさせてくれた。ゴン・ミンくん、ありがとう。これはただのチャリティーではありません」と語っておられました。本当にそうですね。本当に美しいコリアの心です。

 その晩、心溢れる、ハートフルな演奏をしたのは、これから被災地を訪れるという皆さん、ゴン・ミンさんが韓国から呼んだ一流のプレイヤーであり、クリスチャン仲間の4人、ゴン・ミンさんの心に感動して、心をひとつに繋がれた国立音大の学生たちと卒業生のビッグバンド、そして、何と小曽根真さんが教え子たちのプロジェストに心を添わせて、ソロとビッグバンドとの共演で3曲も演奏なさったのです。無料のコンサートですよ! 心繋がる人々だけで、ほぼ前宣伝なしで、200名ぐらいの聴衆でした。

 私が心から感動したのは、ゴン・ミンさんと小曽根真さんのピュアな心の交流です。小曽根真というジャズピアニストは、「世界的」といった月並みな形容詞は何の意味も持たない人です。この頃は音楽の境界を越えて、オーケストラとクラシックもやります。そういうこの世の名声や知名度の違いなど何の関係もない、ゴン・ミンさんのクリスチャンの心、日本人への愛に心震えて、国立音大の学生たちも、ひとつ心に繋がれて音楽をする心の喜びに溢れている。そのいのちの息が私たちの心に届くように楽器を鳴らします。小曽根さんがソロ演奏を終えて、最後に吐き出した息の、生きている人間の息の、なんと純であたたかであったことか。ゴン・ミンさんと小曽根真さんがハグする姿がどんなに美しかったことか。コンサートでは、一度も「神様」という言葉は使われませんでした。演奏された曲もクリスチャン・ミュージックではありませんでした。しかし、ゴン・ミンさんというクリスチャンの心が虹のような弧を描いて人間の交わりを創り出す。音楽という愛の言語で人と人とを繋ぐ。そこに私は共におられるイエス・キリストを見ました。帰りに私は彼に言いました。「ゴン・ミンさん、ありがとう。あなたの心は、日本人の私が愛し、尊敬する韓国人の最も美しい心です。」
 
 
 「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」、「人々があなたがたの立派な行いを見て」というお言葉を読むと、私たちは人目につくことを考えがちです。必ずしもそうではないはずです。山上の説教でイエス様は、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」(6:1)と言われました。
 
 カトリック教会の聖人にリジューのテレーズという修道女がいます。四街道惠泉塾では、夕食前に短い聖句を読み、敏子さんがテレーズの小さな言葉を読みます。読み終えると、私はよく「あぁ、テレーズ」とため息をつきます。言葉は違っても、「水谷先生と同じことを言ってるなぁ」と思うことも多いのです。聖霊が語ることですからね。ある日、こういうテレーズの言葉がありました。
 
 「どんなに小さな犠牲も断らないようにしましょう。愛によって拾えば、一本のピンでも一人の人を回心させることができるのです! なんと深い神秘でしょう! イエスさまだけが、わたしたちの行いにこれほどの値打ちをお付けになれるのです。ですから、力の限り主を愛しましょう。」
 
 一本のピンを拾うような小さな愛の犠牲の中に律法は成就されるということですね。結局、「立派な行い」は、心の貧しさから出る行いです。悲しむ人、柔和な人、義に飢え渇く人、憐れみ深い人、心の清い人、平和を実現する人、義のために迫害されている人のうちに「立派な行い」は隠されて輝くのです。
 
 ある聖書学者が13〜16節の「地の塩、世の光」に関する御言葉が、11〜12節の御言葉とひとつのまとまった文章単位を構成していることを明らかにしています。こういうことです。「わたし(イエス様)のために、ののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき」、私たちはどう応えるか。それが私たちが「地の塩、世の光」として生きることに関わっている。
 
 惠泉塾で教えられることは、そこで自分の正しさを捨てるということです。黙って相手を受けとめ、自分が悪者とされることを受けとめる。全体の喜びのために、赦し合い、担い合う。
 
 それは人間の努力ではできません。ただ、神の御子が私たちのために悪者にされ、私たちの1万タラントンの負債を身代わりに担って下さった、その十字架のイエス様の愛を見つめるしかありません。いや、聖霊によってその愛をいただくしかありません。私たちは、自分の力で「立派な行い」をするのではなく、神の力によってさせていただくのです。私たちは、御子の十字架の贖いと御霊の油に浸されて世の光になります。そこでどうして私たちがほめられていいでしょうか。あがめられ、ほめたたえられるのは、私たちではなく、ただ天の父です。
 
 イエス様はガリラヤの小さき群れに「あなたがたこそ世界の光です」と語りかけられます。皇帝アウグストが築き上げた軍事力による「パックス・ロマーナ」(ローマの平和)の時代に、「あなたがたこそ平和をつくる者だ」と、ローマ帝国の片隅の地、その辺境の小さな群れに言われます。
 
 「神の秘められた計画」は、小さなところから始まります。ダビデは、エッサイの子らのうちで最も小さい者でした。ベツレヘムはユダの氏族のうちで小さい者ですが、イスラエルを治める者はそこから出ました。イスラエルは諸民族のうちで最も小さい民ですが、そのゆえに神の民として選ばれました。ガリラヤの丘で主が召されるのも、何の取り柄もないような貧しい小さな群れです。
 
 神様は、御国の畑に「どんな種よりも小さい種」を蒔かれます。しかし、その種が成長するために、私たちはどんなにか「我」を砕かれ、自分に死に、心貧しくされなければならないことでしょうか。このガリラヤの小さな群れは、やがてばらばらになります。「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなかった」とヨハネは書いています(6:66)。12弟子も主を捨てました。福音書の全体は、徹底的な挫折の闇を経験して、復活の光に照らされて立ち上がった弟子たちによって書かれているのです。いや、闇を照らされるだけでは足りません。まことの命の光は、聖霊によって弟子たちの心の闇に投げ込まれ、彼らを内側から担い上げたのです。水谷先生が「『キリストが共にいる』ということが救いだ」と言われました。「インマヌエル」——そうです。わたしとともに歩めば、律法を守れなかったことは赦される、守ったことになる、天の父のみこころにかなう生活ができる。それが「律法学者、ファリサイ人の義にまさる義」です。


 『波止場便り』の次号に「モラヴィア兄弟団」について書きました。ジョン・ウェスレーに深い影響を与え、英国やヨーロッパ全体を変える光になった小さき群れです。彼らが激しい迫害を逃れて故郷のチェコを離れ、ドイツのツィンツェンドルフ伯爵の領地に移り住んだとき、最初は家族親族の10名でした。たった10名の者がフートベルク(見張りの丘)に家を建てて共同生活を始めました。 愛し合う彼らの姿を見て、ある牧師が「神はこれらの丘の上に、全地を照らす光を置かれるであろう」と預言しました。それからその丘は、ヘルンフート(主の見張り)と呼ばれるようになります。
 
 しかし、様々な異なる背景の人たちが増えるにつれて、それぞれが立場や権利を主張して、互いに非難し合って分裂し、混乱は深まるばかりでした。かつてその丘を「全地を照らす光」と預言した牧師は「まるで悪魔がすべてをひっくり返そうとしているようだ」と嘆きました。
 
 しかし、1727年8月13日の主の日、和解のペンテコステが起きます。教会までの道のりを、2、3人の小さな群れで歩む中で、激しく争った者どうし、互いに自分の非を認め、互いに赦しを乞いました。教会堂に入ると、賛美歌を歌ううちに会衆はひざまずき、歌声にすすり泣きの声が混じりました。すべての人に苦悩と願いがありました。「本当の信仰の道を教え示して下さい」と心から祈らされました。指導者の熱い思いを込めた説教と徹底した悔い改めの祈りの後で、会衆は「折り曲げられ高められた心をもって」主の聖餐を受けたのでした。その時の出席者のひとりが次のように語っています(井上政己監訳『キリスト教2000年史』より)。

「(私たちは)深い悔悟と感動に包まれ、救い主に対する新たな愛と信仰が、そしてお互いに対する熱烈な愛が、心に火のように燃え上がった。私たちは自発的に、涙を流しながら互いを抱擁した。やがて一同の間に聖なる一致が生まれた。それはまるで、廃墟の中からモラヴィア兄弟団のいにしえの一致が呼び起こされたようであった。」

教団文書に、その日「私たちは愛することを学んだ」とあります。「私たちはみんな別の人間に、神の子になった思いだった」と。それは長く続いた争いの終わりではなく新しい共同体建設への始まりでした。そうしてモラヴィア兄弟団は「ヨーロッパ・プロテスタントの生きたパン種」になったのです。

「あなたがたこそ世の光である」という御言葉をいただいて、私は、この罪の世、闇の時代において、札幌キリスト召団(惠泉塾)という小さな群れへの主の召し出しをお伝えしました。

「私たちこそが」という思いはありません。愛せない闇は私たちの内にあります。「世の光」として召された私たちが、本当に「世の光になる」になるためには、私たちこそがもっともっと心貧しくされなければなりません。愛することを学ばなければなりません。私たちは別の人間にならなければなりません。「神の子」とされている者として、「神の子」にならなければなりません。

主イエス様は、ただ罪を赦し、取り除き、病を癒したりするだけのお方ではありません。聖霊によって、私たちのすべてを内側から新にするお方です。私たちの心の汚れを解決して、愛する者にして下さいます。ですから、私たちもまた「折り曲げられ高められた心をもって」主の聖餐を受けましょう。「本当の信仰の道を教え示して下さい」と、愛し合うために聖霊を求めて、今ここで祈ろうではありませんか。                         
                                  アーメン

                                 

                                                                   
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東日本大震災復興支援コンサート THE BRIDGE CONCERT with Special Big Band (2018.2/3 〈2nd. Stage〉18:00 OCC 8F HALL)

 知人のビョン・ホギルさんのお誘いで件名のコンサートに行き、久しぶりに音楽の感動を味わいました。

 主人公はゴン・ミンさんという韓国人のピアニストです。この若いクリスチャンのピアニストが、たびたび被災地を訪れて演奏したり、日本の教会等でビョン・ホギルさんとも共演しているのは知っていましたが、近くでお話や演奏を聴くのは初めてで、とても心を打たれました。

 韓国K-POPシーンでキャリアを積み重ねていたゴン・ミンさんは、韓国で大震災の惨状をニュースで見て心を痛め、何かできないかと思ったそうですが、何もできずに、ただ日本のドラマを観て日本語の猛勉強を始めたそうです。そして、2013年の被災地コンサートを皮切りに毎月のように来日し、音楽による慰めを届けるようになります。それだけでは足りず、家族とともに日本に移り住んで、日本語学校に通って、実に流暢な日本語を話すまでになります。彼の日本語の息づかいは、ただ勉強や慣れによるものではなく、あれは日本(人)に対する愛の呼吸です。

 ゴン・ミンさんは、日本のファミレスに行くと、よくジャズが流れているのを耳にして、日本人はジャズが好きなのだなと思ったそうです。彼自身はクラシックを土台にして、K-POPの世界にいて、ジャズには縁がなかったそうですが、日本人を愛する彼は、世界的なジャズピアニストの小曽根真さんにジャズを学ぶために、小曽根さんが教授を務める国立音大のジャズ専修での学びを始めます。小曽根真さんは、そこでゴン・ミンさんの心に触れて感動なさいます。「ゴン・ミンくんは、僕にも自分の音楽が目指すものについて、もう一度思い起こさせてくれた。ゴン・ミンくん、ありがとう」と語っておられました。

 その晩、冒頭のビョン・ホギルさんの歌に続いて、心溢れる演奏をしたのは、ゴン・ミンさんが韓国から呼んだ一流のプレイヤーであり、クリスチャン仲間の4人(アルトサックスのパク・グァンシク、ベースのキム・キウク、ドラムスのイム・ヨンフン)、彼と心をひとつに繋がれた国立音大でジャズを学ぶ学生たちのビッグバンド、そして、何と小曽根真さんが教え子たちに心を添わせて、ソロとビッグバンドとの共演で3曲も演奏されました。それは、心を打つ語りとともに、私たちへの美しい贈り物でした(信じられないことですが無料のコンサートです! 200名収容のOCCのホールは満員でしたが、もし小曽根真が演奏することがOCCビルの外で広告されたら、有料であっても会場は人で溢れたでしょうが、そういうこととは無縁な場もあるのです)。

 それにしても、世間的な知名度の違いなどとは何の関係もない、ゴン・ミンさんと小曽根真さんのピュアな心の交流は美しいものでした。小曽根さんの言葉や仕草やまなざしにのひとつひとつに私は心から感動しました。小曽根真という「世界的」といった月並みな形容詞は何の意味も持たないような、ただその人であるボーダーレスなピアニストの生の演奏を私は初めて聴きましたが、本当にヒューマンなハートを感じました。ソロ演奏を終えて、彼が最後に吐き出した生きている人間の息の、なんと純であたたかであったことか。国立音大のビッグバンドも、ひとつ心に繋がれて音楽をする心の喜びに溢れていました。そのいのちの息が私たちの心に届くように楽器を鳴らすのです。これから被災地に出発するという皆さんですが、きっと集まった人々の心へ音楽という愛の贈り物となることでしょう。


 私からも「ゴン・ミンさん、ありがとう」と申し上げます。ゴン・ミンさんの心は、日本人の私が愛し、尊敬する韓国人の最も美しい心です。そして、それは韓国から来て下さった主にある兄弟たちもともに、イエス・キリストにある心です。コンサートでは、一度も「神様」という言葉は使われませんでした。演奏された曲も、「アメージング・グレース」を除けば、クリスチャン・ミュージックではありませんでした。しかし、CCM(現代のクリスチャン音楽)には音楽的にも、霊的にも感動をおぼえることの少ない私ですが、昨夜のコンサートでは、ゴン・ミンさんの心が虹の弧を描く人間の交わりに、共におられるイエス・キリストを見ました。

 

近 況(2018年大寒):若松英輔著『内村鑑三』の感想のことなども

 寒さがつのります。四街道は大陸性の気候とかで、千葉県の中でも寒い地域のようです。余市惠泉塾でも、寒さについては様々な伝説のある極寒の住まい「惠泉荘」で5年を暮らしましたので、四街道の寒さなど「それに比べれば」という感じですが、やはり寒いのはどこにいても寒いです。きょうも夜は雪になるという予報です。

 昨日は都賀ビル2階の「ギャラリーオアシス」で、2回目の「都賀フォーラム」を行いました。拙書『神の秘められた計画』ー福音の再考 途上での省察と証言ーの読書会で、昨日は第Ⅰ部「福音の再考ー余市豊丘の生活共同体でー」を読みました。近くから、また遠くから、10名ほどの方々がおいで下さいました。集まりやすい場所ではありません。いつも本当に有り難うございます。次回は4月24日(火)午後1時から、第Ⅱ部「神の秘められた計画ーパウロの『平和の福音』について」を読む予定です。それから第Ⅲ部の証言の部分は省いて、7月に「あとがきに代えてー神の国へー」を読むつもりでいます。

 前回の記事にも書きましたが、四街道惠泉塾で1年4ヶ月を共に暮らしたS君が独り暮らしに向けて都賀に引っ越しました。あとには古河惠泉塾からT姉が来られる予定です。余市でも一緒の時期があった姉妹で、長く心の病に苦しんで来られましたが、今大切な1歩を踏み出そうとしておられます。ある期間は完全に移り住むことはしないで、月に1度、短期滞在をして、ここから都賀ビルの職場に通うようになります。大事な移行期間を大切に共有しながら前進できれば、私どももまったく新しい共同生活が始まることになります。これは、心貧しくされる道で、容易い生活はありません。主に委ねて、ただ導きと憐れみを祈ります。

 四街道惠泉塾の畑には、50本以上もできた大根が、まだ10本以上も植わっています。私も見たことがないような太くて大きい大根で、しかも美味しいのです。今年は野菜が不作で高いそうで、教会に持って行っては皆さんに喜んでいただいています。私どもに畑を譲って下さった前の借り主の方が丹精なさった土のおかげだと思います。そして、大いなる仕手の業の神秘を実感します。3月も近くなれば、そろそろ種蒔きが始まります。畑仕事をしていると癒されます。楽しみです。

 あまり本を読む時間はありませんが、最近出た若松英輔著『内村鑑三 悲しみの使徒』(岩波新書)を読みました。内村鑑三の評伝のようなものをそんなに多く読んでいないので、他と比べることはできませんが、今いくらかは無教会の伝統の中で息をしながら、私にはとても印象深い読書でした。このカトリック教徒の批評家の言葉が、カトリック教会とはまったく対極に位置するような無教会の内村鑑三と共鳴し合う、その霊性の奥の響きに驚かせられます。著者は内村の文語体の文章を引用しながら、その息を逐次、自身の口語に移しかえていますが、それはただ意味を分かりやすくする以上の霊性の交響です。次の引用は、私が今、内村鑑三を読みながら、その言葉の力に感じることでもあります。

 「今日の私たちは内村の数多い言説の奥にあって、彼の信仰を支えている事実を、その表記からだけでなく、語気と語感、あるいは律動から感じとり、それを今によみがえらせなくてはならない。信仰の言葉は、読む者に言語の意味領域を超えることを求めるのである。」(177頁)

 2月10日(土)〜12日(月)、伊豆天城山荘で惠泉塾友の会の全国大会があり、150名近い人々が集います。そこで「世の光」というテーマで聖書講話をすることになっていて、その準備をしています。「あなたがたは世の光です」(マタイ5:14)という主イエスの山上の説教のお言葉を、マタイ福音書の文脈に沿って、イザヤ書の預言の光に照らして読むと(イザヤ42:6,49:6,60:1~3等)、まことの世の光(ヨハネ8:12)、まことのイスラエルであるキリストにつながり、従って、異邦人への啓示の光となるように召された神の民の使命、すなわち「神の秘められた計画」が語られていることに気づかされ、感動を新たにしています。

 

 

朝の光のさすときに:S君との生活の記念に(附:第2回「都賀フォーラム」のご案内)

エマオの途上元写真
 
 プロフィールに入れたものと同じ画像ですが、画面をクリックするとさらに拡大してご覧いただくことができます。プロフィールでは道を歩いている2人が見えにくいと思います。私と家内です。一緒に生活しているS君と早朝の散歩をしているとき、彼が撮ってくれた写真で、朝の光がさす中でのエマオ途上の旅人のようで(イエス様は見えません)、私のお気に入りです。1年4ヶ月続いたS君との生活も、きょうが最後の晩餐でした。明日彼は、都賀での独り暮らしに旅立ちます。S君との生活と交わりの記念に掲載しました。

 本ブログ最初の画像です。昔学生時代、古楽を聴き始めた頃、やっとの思いで買い求めたアルヒーフのレコード盤の銀色のラベルがまわるのを喜びをもってながめていました。あの頃のアルヒーフのジャケットは、いかにもドイツの老舗らしい文字だけのものでしたが、次第にアルヒーフも薄化粧から現代風の装いになりました。本ブログでは薄化粧時代のアルヒーフのようです。


               【ご 案 内】
            第2回「都賀フォーラム」

期 日:2018年1月30日(火)午後1時〜4時(自由歓談を含む)
場 所:バザールヴィタ/ギャラリーオアシス(千葉県若葉区3-24-8 都
    賀プラザビル2階 TEL. 043-309-8353)
テキスト:後藤敏夫著『神の秘められた計画』(いのちのことば社)「第 
    Ⅰ部 福音の再考ー余市豊丘の生活共同体でー」
連絡先:090-1842-1809(後藤敏夫)
会 費:無料(余市焙煎の美味しいコーヒーをご注文いただければ幸いで
    す。)

*どなたでもご自由に参加できます。前回は10名余りで初めてお目にかかる方々も多く、ほとんどは教職者ではない信徒の皆さんでした。進行の仕方は再考しています。おいでをお待ちしております。


 
 
 

ブログ「猫背通信」(改)への感謝(附:第2回「都賀フォーラム」のご案内)

「猫背通信」(改)のブログ主様

 貴ブログで3回にわたり、拙書『神の秘められた計画』ー途上における省察と証言ーを取り上げて感想をお書き下さったことを心より感謝申し上げます。

 たとえ小著ではあっても、一冊の本を世に旅立たせれば、それにどのような反応があるのかは、やはり気になります。まして、今回の拙書は、どんなに小さな一歩でも、全身で新しく出発するために、息の通った対話を求める福音派の旅の仲間への語りかけです。そうであれば、なおさらに——貴兄の言葉を使わしていただければ——「福音派教会内でどのように読まれているかを、僕は知りたい」という思いが著者にはあります。

 これまでも、アマゾンのレビューを含め、何人かの方々が有り難いお言葉を下さいました。このたび貴兄からの非常に真摯な応答を読ませていただき、小さなお返事を差し上げたいと思いました。

 お書き下さったように、拙書は「福音派批判」の本ではありません。貴兄が勿体ないくらいにご理解下さっているように、私は誰かを批判するというよりは、ただ現在置かれている途上の位置から、過去を振り返り、また将来を見つめながら、教職者として召されたひとりの福音派キリスト者として自分が歩む「道」について書きました。いわゆる福音派の現状に対する分析的批判は欧米には多くありますが、拙書は日本における著者のいわば「四畳半一間の神学」なので、その思いが——問題意識ということよりも、その心が——どれだけ福音派の仲間に共有されるものなのかは不安があります。

 そういう思いの中で、「この本は、現代の日本の福音派教会への告発、しかもかなり激しい告発となっている」という貴兄の言葉は、私にとって、かなり激しい驚きであると同時に、拙書の意味を知らされたような思いもしました。「この本の内容はひとつの『事件』だと思う」という言葉についても同じ思いです。私たちキリスト者は、誰もが神様からの「事件」(出来事)を生きているのですが、私というひとりの福音派キリスト者に起きた「事件」が、ひとりの人に、日本の福音派にとっても「事件」として受けとめていただけたとしたら——貴兄の語る「事件」の意味を正しく理解した上で——拙書を出版していただいた意味はあったと思います。

 私が現在属している札幌キリスト召団や惠泉塾に関する貴兄の見方、すなわち「やはりこの団体は正統派のプロテスタント教団とは言いがたく、創設者の水谷幹夫氏のカリスマに負う団体だと思う」ということは、まったくその通りです。「正統派」とは何か、という議論は別として、札幌キリスト召団という無教会につながるプロテスタント集団と、その信仰の体現である惠泉塾という生活共同体は、教団というよりは、マックス・ウェーバーの宗教社会学で言うところのゼクテ(誓約集団)です。そこに教会の主からの「事件」としての現代における「召団」の存在意義もあれば、歴史的な限界や課題もあります。それはどの時代のゼクテにおいても同じで、私たちはそこで、謙遜に人間的な限界にとどまりつつ、聖霊によって人間的な限界を広げられながら、遣わされた時代における自分たちの召し(存在意義)と課題を生きざるを得ません。

 私が惠泉塾に、そしてその結果として、札幌キリスト召団に属するようになったのは、福音派に批判的であったからでも、ましてや何らかの斥力によって福音派の外に押しやられたからでもありませんでした。ただ、心身ともにそうならざるを得ないように、妻とともに聖霊によって導かれたからです。それは自分で計画したことではなく、神様から私たちに起きた「事件」です。そういう意味では、私は「召団の福音」に魅せられて北の大地に移り住んだわけではなく、また水谷幹夫先生とも「出会ってしまった」というよりも、ただ迎え入れられたという感覚の中で、その存在の大きさに向き合いもがきながら、自分の立ち位置(召し)を生きようとしているという感じでいます。

 ですから、拙書にある「水谷幹夫先生の福音」といった表現に感じる貴兄の違和感は「単に感性の問題」ではなく、私自身が共感と違和感の中で、自分が置かれている「召団」の内と外を意識しながら書いていることです。貴兄が何度も書いておられるように、確かに拙書は福音派の外にいる立ち位置からしか書けなかったものです。そして確かに私は、「召団が宣べ伝える福音」、「水谷幹夫先生に宣教と生活のビジョンとして示された福音」、すなわち「神の秘められた計画」という「聖書の福音」(イエス・キリストの十字架の福音)を宣べ伝え、生きる者として札幌キリスト召団に属し、四街道で妻とともに小さな惠泉塾を営んでいます。

 貴兄が拙書の「あとがきに代えて」に書いたことに同意して下さったのをとても嬉しく思いました。大雑把な書き方ですが、自分だけの思いではなかったのだという励ましをいただきました。福音派の方々に拙書を手にとっていただけるとしたら、まず「あとがきに代えて」から読んでいただきたいと思います。そして、もし拙書をめぐって福音派の仲間と話し合うとしたら、ご指摘のように「福音の信仰と価値観において、私たちはどこかの時期に、最初からおかしくなったのではないか」という一点をめぐるものになるかと思います。そして、それは私どもの世代の者こそがなすべきことのように思うのです。

 「いのちのことば社はよく出したなぁ」——その通りです。良き出会い、良き場、良き編集者に恵まれました。それも神様からのひとつの「事件」です。意は尽くせませんが、ここまでにします。有り難うございました。主の恵みと平安をお祈りいたします。
 


            【ご 案 内】
       第2回「都賀フォーラム」

期 日:2018年1月30日(火)午後1時〜4時(自由歓談を含む)
場 所:バザールヴィタ/ギャラリーオアシス(千葉県若葉区3-24-8 都
    賀プラザビル2階 TEL. 043-309-8353)
テキスト:後藤敏夫著『神の秘められた計画』(いのちのことば社)「第 
    Ⅰ部 福音の再考ー余市豊丘の生活共同体でー」
連絡先:090-1842-1809(後藤敏夫)
会 費:無料(余市焙煎の美味しいコーヒーをご注文いただければ幸いで
    す。)

*どなたでもご自由に参加できます。前回は10名余りで初めてお目にかかる方々も多く、ほとんどは教職者ではない信徒の皆さんでした。進行の仕方は再考しています。おいでをお待ちしております。


 
プロフィール

百姓とんちゃん

Author:百姓とんちゃん
牧師生活を経て、北の大地の信仰共同体で農耕生活の見習いをして後、千葉県で四街道惠泉塾を営んでいます。

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