善きヨツカイドウ人への感謝:畑から自宅へ下る道での出来事

 近所に畑を借りました。塾生がいれば、適度の肉体労働をすることによって、生活のリズムが生まれ、夜も良質の睡眠がとれますから、以前から畑が欲しいと思っていました。
 
 私たちが住む住宅地を少し外れると、今は生業は営まれていない農地が沢山あり、周辺の退職したような住民に小分けにされて貸し出されています。ほぼ無料です。草ぼうぼうにしてくれなければいいのです。私たちが借りたのは、前の借り主が高齢のために手放した140平方メートル程で、表土から30センチ位はふかふかのよく丹精された畑です。
 
 先日の夕方(移転当初とは違いあまり時間がありません)、その畑にひとりで鍬を入れ、山林の草に覆われた道端に停めた車で帰ろうとする、四輪駆動の軽自動車が何かにひっかかったようにまったく動きません。通りがかりの人が前輪近くで直径20センチのほどの木の切り株が車底の金属に食い込んでいると教えてくれました(そういえば、停めたときにガタンとして縁石かなと想ったのでした)。
 
 さて困りました。軽自動車ですから男性が5人位いれば持ち上がるのですが、山道では動員できません。地面は柔らかでジャッキは効きませんし、近くに板もありません。徒歩10分弱の家に帰り、自転車でホームセンターに剪定用のノコギリを買いに行きました。切り株を切ることにしたのです。同居人のS君と一緒に一所懸命に頑張りましたが、あるところから先は、車の重さでノコギリが動かず(奮発して切れ味の良さそうなのを買ったのですが)、どうすることもできませんでした。
 
 周囲は次第に暗くなります。呆然として、業者を呼ぶしかないかと想っていると、林の中の道をひとりの壮年男性が通りかかり、立ち止まり声をかけ、事態を観察されました。家が近いというその方は、ご自宅に戻ると、ほどなく軽トラックにタイヤの下に入れる板や、梃子の原理で車を持ち上げるための長い材木や角材の切れ端を載せて来られました。普通の家庭にあるようなものではありません。お仕事を訊くと建築屋さんだそうです。その方は、材木が短すぎると知ると、また家に戻って長いものを持って来られました。極めつけは、もう一度、ご自宅に戻って持参なさったチェーンソーでした。トラックが着いたときに、チェーンソーはすでに唸りをあげていて、その音がどんなに頼もしかったことか。
 
 作業の間、その方は、車に傷つけないこと、また私たちがうかつに手を出して、怪我をしてはならないことを繰り返し注意しました。チェーンソーでほぼ切り終えた終えたところで、最後は周到にハンマーとノミで切り株を切断なさいました。愛車は、敷かれた板の上をバックで道の方に動きました。その方が足を止めて下さってから2時間後でした。周囲はもう真っ暗で、軽トラックのライトでの作業でした。
 
 それにしてもなんという親切な方でしょう。途中からは奥様も来られました。その方でなければ、普通の人ではできない作業でした。最初から業者を呼ぶべきだったかもしれません。ただ、そういう親切な人の心に触れたこと、また神様が憐れんで山林に囲まれた道でその方を送って下さったことを心から感謝しました。
 
 驚いたのは、家に戻られるとき、軽トラックはまるでわが家の庭のようにバックでスピードをあげながら山林の坂道を下って行ったことです。翌日、お聞きしたお名前と住所を頼りに御礼にお伺いすると、その方のご自宅兼作業所は、坂道を下ったすぐそこでした。

 
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【読書ノート】N.T.ライト『シンプリー・ジーザス』を読了して

 「あめんどう」の新刊、N.T.ライト著『シンプリー・ジーザス』を読み終えました。最初の「読書ノート」に、面白くて「巻を措くに能わず」と書いたにもかかわらず、何度も巻を措き、やっと読了しました。内容のせいではありません。本当に面白い本ですが、ただ面白いと言って済ませられない本です。
 
 いつかこのブログに書いた憶えがありますが、欧米で話題になった本はすぐに翻訳される日本でN.T.ライトの紹介が遅れたのは、ドイツの聖書批評学に育てられた学者や教職者には——比較的穏健な立場の人々も含めて——聖書テクストに対するライトの向き合い方や神学的立場があまりに保守的(伝統的)でまともすぎて面白みや刺激がなく、信仰的背景が近い福音派(エヴァンジェリカル)の人々にはライトの語るところがあまりに従来の福音派の枠を越えているので——というよりも、(根本教理において保守的でありながら)教会に流布している伝統的、標準的な聖書理解を根本的に見直しているので——なかなか紹介しにくいということがあったと思います。
 
 ライトはただ学問的なロゴス(理論)の人ではなく、宣教のパトス(熱情)を持った人です。『シンプリー・ジーザス』のような一般読者向けの本には、聖書や歴史に関する豊かな知識を披瀝しながら、彼のシンプルな主イエスへのシンプルな愛と宣教的パトスがシンプルに(まっすぐに)溢れ出て、読んでいて私の胸も熱くなります(特に最後の15章など)。これは従来の認識や解釈を綿密に解きほぐして再構築するようなライトの学問的な著作にも感じることで、それゆえ彼をただの伝統的キリスト教の弁証家として片づけたい人もいるようです(そもそも彼には対象においてではなく仕事と奉仕の心において、学問的な著作と一般読者向けの著作という区別はないように感じます)。
 
 ライトの「聖書論」や「聖書のストーリー」、あるいは「義認論」の理解をめぐって、神学的に、あるいは歴史学的に、福音派内に様々な評価や議論があるのは当然です。ただ絵画を観るのに額縁だけを論じたり、画家の筆づかいについて——時には作品自体に向き合うよりも画家について書かれたものに拠りつつ——批評的に理念の言葉を語り、その豊かな色彩や構図が伝えたいメッセージ、作者の息づかいに含み合う、新しい創造における三位一体の神様の(という)愛の熱情を感じ取ることをしないとすれば、それは残念なことです。
 
 明日は受難週主日で、オリーブ山教会では洗足式がありますので、ヨハネの福音書13章の洗足の主を黙想しています。1節の「その愛を残すところなく示された」(新改訳)は、「極みまで愛した」(岩波訳)、「最後まで愛し通された」(口語訳)とも訳されます。ヨハネは「エイス・テロス」という言葉に、「残すところなく」、「極みまで」と「最後まで」(参・新改訳欄外注)の両方の意味を含ませているのでしょう。それはただ洗足の場面をだけを指して言われているのではなく、洗足が指し示す福音の真理、すなわち学者たちが「主イエスの栄光の書」と呼ぶ13章からの主の受難と復活を伝える場面について語られていることです。その意味で「エイス・テロス」は、19章30節の主イエスの(ヨハネの福音書では)十字架上の最後の言葉「テテレスタイ」(新改訳「完了した」、新共同訳、岩波訳「成し遂げられた」)において括られるという学者(伊吹雄『ヨハネ福音書注解』)と私は栄光の主への賛美を共にしています。
 
 ところでライトは、主イエスの「完了した」には創世記の響きがあるとして、次のように書いています。
 
 「つまり創造の第六日目に、神は創造のすべての業を完了した。イエスの働きのポイントは、人々を被造世界から救出することではなく、被造世界そのものを救出することにある。イエスの死をもって、その業が完成した。そのときにこそ、またそのとき以外には、そしてその方法によってのみ、新しい創造が生み出される。」(320〜321頁、強調原著者、邦訳傍点)
 
 ライトが魂で(全身で)感じている「響き」が、文法的・歴史的釈義に沿うものかどうか、私には分かりません。しかし、彼のその神学的釈義は、私のうちに熱い泉を湧き出させます。神が愛によるすべての創造の創造の業を終えて、この宇宙という神殿に王として着座なさったように(6日目の安息は、お休みの日ではなく、神が王として着座された日、その王を礼拝する日です)、主イエスは十字架という栄光の王座から万物の新しい回復の始まりを宣言されました。真の安息に向かう新しい創造、神の創造の8日目が始まったのです!
 
 十字架は「天国」行きの列車の切符売り場ではありません。ライトの新刊書の題にあるように、聖金曜日は、被造世界全体に関わる「革命が始まった日」(The Day the Revolution Began)です。人類の救済に関わって、水谷幹夫先生の言葉を使えば、「十字架の罪の赦しは、異なる者が互いに愛し合ってひとつになるための条件整備だった」ということです。
 
 そして、そういうライトのメッセージは、(私は私なりの歩みを通して、ずっと貧しい言葉で書いたのですが)出版されたばかりの『神の秘められた計画:福音の再考ー途上での省察と証言』(いのちのことば社)で福音派の方々と分かち合おうとしているメッセージとほぼ重なるように思え、福音を信じて生きる希望と大きな励ましをいただきました。

 

【読書ノート】N.T.ライト『シンプリー・ジーザス』(前回の補足)

 「変容される心」という小見出しがつけられたところで、前回の記事に取り上げたマルコ7章に続いて、ライトは、マルコ10章のパリサイ派とイエスの離婚をめぐる論争を取り上げています。そこでもライトは、思いがけない角度から主のお言葉に光をあてます。ライトは、離婚をめぐるその議論は、単なる離婚問題、倫理問題を扱っているのではなく、「神が王となるとはいったいどういうことか、という問いを含むものだった」と言います。少しライトの言葉を引用します。
 
 「男女が一体となることは、天と地が一つになることのしるしであり、驚くほどの多様性に満ちた神の被造世界の統合のしるしなのである。イエスは、神が王となるときに被造世界そのものが刷新されることを強調している。それゆえ、神の王国における支配とは、創造の秩序の意味を明らかにする支配なのである。そこには、生涯にわたって貞節であるべき、一夫一婦制の結婚が含まれる。」(187〜188頁)
 
 「……心に関する他のすべての箇所を考え合わせれば、私たちは自信を持ってイエスの示したポイントはこうだと断言できる。すなわち、神が天でそうであるように地においても王となられるとき、神は心の頑さという病への解決をもたらしてくださるだろう。
 
 病める体へのイエスの癒しは、その人の奥底までも貫徹する。内側からの癒しによって変えられた人生は、神が王となられるとき、それにふさわしい創造の秩序を示すものとなるだろう。食事と結婚についてのどちらの議論においても、イエスの教えが生活の私的領域での敬虔さについてだけのものでは決してない。イエスの教えが公共的な生活とは無関係な『心の宗教』についてなのだと結論を出すことはできない。」(188〜189頁)
 
 ライトは、そこで「今日こんなことを言おうものなら、大変な物議をかもすだろうが」と書いていますが(「イエスの時代にもそれは変わらなかった」と言って)、ここでライトが見ている遠近の地平こそが大切なのだと私には思えます。
 
 結婚や離婚、そして家庭や家族をめぐる今日の状況や現実は、教会内においてもいよいよ困難や複雑さを増しています。そこで、福音派の教会では、結婚はクリスチャン同士でなければならないか。離婚は許されるか許されないか。もし許されるとすればどういう場合においてか——そういう議論が御言葉の引用、またその釈義や解釈、また神学の立場で法的解釈のようになされます。「聖書信仰」の立場で(また教会の立場として)、それは大切なことです。しかし、それぞれの立場で、その議論にとどまっている限り、私たちはパリサイ人、律法学者と同じ、聖書の言葉で自分を正当化する土俵にいるのです。それは安息日に穴に落ちた家畜を引き上げるのが良いか悪いかという議論と本質的には変わりません(私たちにパリサイ人を批判する資格があるとは思えません)。本当に大切なのは、ライトが示しているような、聖書の贖いのストーリーと福音が指し示している太いいのちの線です(註)。
 
 福音派のきよめ派に、聖霊の第二の恵み(セカンド・ブレッシング)を受けた者は、過失としてのあやまちはあっても、もう意図的には罪を犯さないという立場があります。そういう立場に反対する神学的な立場もあります。「罪」ということの理解にも関わることですが、私自身は後者のメッセージを聴き、また語って来ました。そこで(まったききよめを受けた?)クリスチャンは罪を犯すか犯さないかという議論が聖書の釈義や信仰生活の体験に基づいてなされます。時に体験が御言葉を解釈し、また時には御言葉が体験を説明します。いわゆる「聖化」(きよめ)をめぐる議論です。それも「聖書信仰」の立場で大切なことです。しかし、最も大切なことは、私たちが主イエス様が山上の説教で命じておられるクリスチャンの「きよめ」「完全さ」にあずかり(それは救いの恵みに基づきます)、「パリサイ人、律法学者の義にまさる義」(マタイ5:20)である「憐れみ」(隣人を愛する自己犠牲的な関わりであり、単なる人間的な優しさではありません)に歩んでいるかということです。私には、多くの場合、クリスチャンの種々の議論が——神学的な議論すらも——「パリサイ人、律法学者の義」の土俵でなされているように思えます。
 
 ライトがそこに立って見ている終末論的な地平は、「すでに/いまだ」の間にあるのですが、そういう概念の認識や説明にとどまることなく、彼は「すでに」の方向に強く前傾して、信仰の重心を新しい創造によって与えられるいのちに移しながら、そのラディカルな刷新の希望を聖書全体の宇宙論的な大きなストーリーの中で疾走しながら歌っています。この深い闇の時代に、イエスの贖罪による「神の王国」が指し示す希望に満ちた、その太い福音の線(いのち)に生かされること、生きること、ただそれだけが大切なことだと、今の私には思えます。

(註)11章「空間、時間、そして物質」は重要な章です。安息日に関しては、243,244頁の以下の記述が心に留まります。
 「イエスは安息日の規定を、あえて無視していたかのように見える。今日の教会の多くの人々は、当時は安息日規定があまりに『律法主義的』になってしまい、それを守ることは人々の道徳的達成感を増幅させるためだったと想像する。そこでイエスは、自由主義的、反律法主義的情熱をもって安息日規定を廃棄しようとしたのだ、と。これがどんなに標準となる説明であっても、浅はかな誤解である。
 それはあまりに『現代的』な解釈だ。むしろ安息日とは、神が約束した将来を指し示す道しるべであり、イエスはその安息日が指し示していた未来が、今ここに到来したと宣言したのだった。」(強調は原著者。邦訳では傍点)




【読書ノート】N.T.ライト『シンプリー・ジーザス』(あめんどう:2017)

「あめんどう」の新刊、件名のN.T.ライトの本を読んでいます。私にとっては、まさに巻を措くに能わずといった面白さです(時間がなくて、たびたび巻を措いていますが)。
 
 福音書の言葉を読むとき——ほとんどの人は意識しないことですが——イエスが語り、活動されたそこは外国の支配者の暴虐がはびこる「奪われた野」であり、そこで抑圧されて生きる民の叫びや祈りを心に刻むことが大切です(信仰をもって福音書を読むためにそれが絶対に必要だと言うのではありませんが)。ライトは、紀元1世紀、第2神殿時代のユダヤ社会の現実と民の待望の中に、イエスの言葉を活き活きと浮かび上がらせます。「時は満ちた。神の王国は近づいた」(マルコ1:15)というイエスの宣教の第一声がこの世の王国に対峙して、深く霊的に過激な挑戦を響かせます。
 
 いつか「歌うライト」ということを書いたことがあります。ここでもライトは、イエスの王国の賛歌を歌っています。(聖書学者を含んだ)この時代の懐疑主義者たちや、保守的で頑迷なクリスチャンたちに抗して、ある意味では弁証論的な調べも含ませながら、信仰と学識を傾けて彼の王(メシア)への賛歌を歌っています。ライトのもとで学ばれたという訳者は、そのよどみない旋律とリズムを意味をたがわずに見事に日本語に移して下さいました。
 
 読書感想文のようなものは、読み終えてから書くべきものでしょうが、私にとって大切なことを忘れないうちにメモしておきます。
 
 きょう読んだ中に「変容される心」という小見出しで、マルコ7:1〜23に関するライトの理解が書かれてありました(182〜186頁)。「人を汚すのは外から人の中に入るものではありません。人を汚すのは内側から出てくるものなのです」(15節)という主のお言葉は、ユダヤ教の食事の際の清めの規定や食物規定すらも意味のないものとしますから、その時代にあって(今も!)、霊的に、社会的に、そして歴史的に実に過激な言葉です。そこでイエスはこう言われます。
 
 「性的な不品行、盗み、殺人、姦淫、強欲、邪悪さ、背信、遊興、嫉み、中傷、傲慢、愚かさ。これらの悪はすべて内側から出てきます。これらが人を汚すのです。」(21〜23節)
 
 この御言葉は、ローマ書1:29〜31などとともに、人間が神の前にどのような罪人であるかを示すために、個人伝道などでもよく用いられます。そういう意味では、(自分を含めて)神の前に本当に「清い」人はいないということを示しているように読んで来ました。しかし、ライトは、この箇所についてこう書いています。
 
 「イエスのポイントは、神が王になられるとき、心の汚れの解決を提供して下さると言っているのだ。それは山上の説教(マタイ5〜7章)の言葉の端々にいく度となく現れるテーマである。神が王となられるとき、神は赦しと癒しの使信を携えて来られる。それは、単に長年の罪を取り除いたり、長年の病を癒したりするだけでなく、その人のすべてを内側から刷新するのである。イエスのあらゆるアジェンダには、出エジプトのいにしえのストーリーでの『新しい使命と生き方』という側面が含まれていた。これが、ポイントなのである。」(185〜186頁、強調原著者、邦訳は傍点)
 
 「(イエスの使信は)その人のすべてを内側から刷新する」ということは、今の私には聖書と福音の理解において、最も重要なメッセージです。ライトの書物は、いのちのことば社からも翻訳が出され、福音派内からポジティブな、あるいはネガティブな、様々な反応があるようです。評価も批判もそれはそれとして大切なことです(少なくとも自分が扱ってるテーマに関して、ライト自身の著作を読んでいることは必要な前提ですが)。ただ私は、ただ問題点を指摘したり、ただアイディアについて議論して済ますには、天における、そして地における天国が近くなりました。私にとって、私の真の王に従って、悔い改めて神の王国に生きるために、ライトの歌声は大きな励ましです。

生活の交わりの中で聖書を読む(朝デボノート/ヤコブ書5章)

 四街道惠泉塾の朝のデボーションは、早朝4時30分から始まります。今はあらかじめストーブで部屋を暖め、1杯の目覚めのコーヒーのためにポットにお湯を満たします。

 週日は水谷先生の古い聖書講話のCDを聴きます。今は毎日詩編を1篇ずつ聴いています。今朝は24編でした。2000年前後になされた講話ですが、詩編全篇の録音があるのですから驚きます。詩編のすべてを語ったという牧師はそうはいないのではないでしょうか。

 日曜の朝は5時から新約聖書の書簡を読んで来ました。今週はヤコブの手紙5章でした。私たち夫婦と、一緒に生活するS君と3人で、月に1度はそこに宿泊のお客様を含めて、聖書を輪読して後、それぞれが教えられたことを分かち合い、私が解説を加えます。聖書は教会に宛てられた神の言葉ですから、具体的な生活の交わりの中で、聖霊の導きを求めて互いに耳を傾け合うのが大切だと思いますが、そういう御言葉を中心とした交わりが教会では意外に少ないように思います。ひとりの作業としての釈義や説教、説教や講義としての聖書研究、あるいは、設問に答えるグループ聖研というよりも、もう少し社会の現実や日々の生活に即して——しかし、あくまでも書かれてあることに即して——クリスチャンが聖書を真にデボーショナルに読んで、分かち合う交わりです。

 ヤコブ書5章の冒頭に金持ちに対する非常に辛辣な警告があります。何の解釈もいりません。このような言葉を現代の牧師は会衆に語れるでしょうか。語るとすれば、可成り水で割らなければならないのではないでしょうか。私はいつか観たオスカル・ロメロ(1917〜1980)の映画を思い出しました。この南米エルサルバドルのカトリック司祭は、内戦のただ中で貧困層の人々の側に立ち、まさにただヤコブのように語ったことによって、ミサの司式の最中に狙撃を受けて殺されたのでした。この時代でも牧師がヤコブのように語れば、狙撃はされなくとも、福音的ではないというレッテルを貼られて教会から追い出されるかもしれません。

 牧師時代の「首都圏イースターのつどい」でのことでした。ステージの司会者が、参加者の間に座っている何名かの有名人やお金持ちを見つけて、その人々を立たせて、参加者に拍手を求めたことがありました(ただひとり司会者の言葉をまったく無視して立たなかった人がいましたが)。目の前に起こったことに、わが耳と目を疑いました。そういううわついた感覚がキリスト教界に漂っていないことを願います。

 7節以下に「忍耐」(ヒュポモネー)という言葉が繰り返されます。いつかも書きましたが、語源的には「ヒュポ」は「〜の下に」、「モネー」(メネイン)は「留まる」を意味します。水谷先生は、「忍耐」を「積極的、建設的努力」と言われ、惠泉塾では大切なあり方になっています。自分が置かれたところから「逃げない」ということでもあります。S君は、「農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを持つのです」という御言葉を、ただ待つのではなく、その間には草引きや土寄せやいろんな作業があると言いました。惠泉塾で農作業を経験していればこそです。それは知識というよりも身体感覚です。私は「互いに不平を言わぬこと」(9節)は、心の草引きだと思いました。

 「忍耐」について、忘れられない本があります。1冊は、ヘンリ・ナウエンの『待ち望むということ』です。この小さな本は今は『わが家への道』(あめんどう)に収められていますが、私たちが神を待ち望むということは、神が私たちを待ち望んでおられることだということを教えられました。もう1冊は、Alan Kreider, The Patient Ferment of the Early Church,The Improbable Rise of Christianity in the Roman Empire(Baker Academic:2016)です。キリスト教がローマ帝国に広まって行ったのは、当時の人々の常識や価値観を越えたクリスチャン愛とその活動によると言われます。それはまったくその通りだと思います。人々はクリスチャンたちの自己犠牲的な愛の行いに感動し、惹きつけられたのです。私は今日のクリスチャンは、初期キリスト教徒に学ばなければならないと思っています。そこで著者のアラン・クライダーは、キリスト教がローマ帝国に広がる歴史を学術的に辿りながら、ただ愛の行いと言うだけでなく、そこでどれほどの「忍耐」が求められたか、新約聖書はどんなに「忍耐」を教えているか、福音の愛は「忍耐」において発酵したことを述べています。このことは私たちの生活に、そのままあてはまることです。

 その日の学びの終わりに、S君は、13節以下に記されている祈りの大切さに触れ、その祈りは、最初に出て来る「富んでいる人たち」をも真理へ連れ戻すだろうと語りました。本当にその通りだと思いました。四街道惠泉塾の共同生活において、私たちは、どんなにか互いの赦しと執り成しを必要としているかを知っています。共に生きるということは、書斎でひとり釈義をするよりも、はるかに困難で、はるかに複雑で、そして聖霊の促す信従ははるかに単純です。
プロフィール

百姓とんちゃん

Author:百姓とんちゃん
牧師生活を経て、北の大地の信仰共同体で農耕生活の見習いをして後、千葉県で四街道惠泉塾を営んでいます。

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